80年の時を超え、台湾と日本を結ぶ一枚の絵
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「嘉義公園」2002年/クリスティーズ香港/落札価格579.4万香港ドル(約7600万円)
「淡水」2006年/サザビーズ香港/落札価格3484万香港ドル(約4億6000万円)
「淡水夕照」2007年/サザビーズ香港/落札価格5073万香港ドル(約6億6000万円)
いきなりお金の話で恐縮である。芸術の真価を一つの尺度で計ることは難しい。しかし「モノ」の価値を語ろうとする際、時に最も説得力をもつのが値段であることも事実である。これらは近年、国際オークション市場に出品された、日本統治時代に活躍した台湾の洋画家・陳澄波(ちん・とうは)の作品である。そして、数億円の価値を持つ油絵が地方の小さな図書館で突如、見つかった。
どうして山口県防府市で発見されたのか?
事の起こりは2015年だった。
山口県防府市に住む元・龍谷大学教授の児玉識(こだま・しき)氏が、郷土出身の政治家で第11代台湾総督の上山満之進(1869~1938年)を調べていたところ、上山ゆかりの山口県防府市立防府図書館の倉庫から「陳澄波」と署名の入った古い油絵を見つけた。
作品の名は「東台湾臨海道路」。
児玉氏の著書『上山満之進の思想と行動』にもあるこの絵は、海に面した断崖絶壁が長く延び、山の中腹には1932年に開通した台湾の東海岸に位置する花蓮の「蘇花公路」が描かれている。さらに「タイヤル族」らしき親子が手をつないで歩いており、海には先住民の小舟が浮かんでいる。木製の額縁にも大きな特色がある。どうやら台湾・蘭嶼(らんしょ)島に暮らす「タオ族」の舟の木材を用いたとみられ、表面にはタオ族の意匠が彫り込まれている。
そして2016年の9月2日、上山の親族・上山忠男氏を中心に、山口県立大学の教授や学生、防府市の有志らによる日台友好訪問団が嘉義を訪れ、「二二八事件」で命を落とし、悲劇の画家と呼ばれる陳澄波の長男で、陳澄波文化基金会理事長の陳重光氏やその遺族と対面した。行方が分からなくなっていた陳澄波の作品が発見されたことを踏まえて、その絵の今後を考えながら日台交流の強化につなげようと訪問団が組まれたのだ。
今回の訪問で、行方不明になっていた父親の作品が日本で発見されたことへの感慨を問われた陳重光氏は、「再び父に巡り会えたような気持ちだった」と語っている。
陳澄波は日本統治時代を中心に、日本や台湾、中国大陸でも活躍した、台湾を代表する洋画家である。
出身は、台湾中部の嘉義市。最近日本でも話題となった、甲子園初出場で準優勝した嘉義農林学校野球部の物語を描いた台湾映画『KANO』の舞台となった街だ。陳澄波のほか林玉山(りん・ぎょくざん)など著名な芸術家を多数輩出した「美術の街」でもある。
東京美術学校(今の東京芸術大学の前身)に学び、台湾人として初めて「帝国美術展覧会」(帝展)に入賞。中国・上海にまで活躍の場を広げていったが、太平洋戦争の激化とともに台湾に戻り、「淡水」など台湾の美しい風景の作品を多く残した。
しかし戦後、日本から台湾を接収した国民党政府の下で勃発した二二八事件に巻き込まれ、1947年、52歳の若さで銃殺された。
戒厳令下の台湾では、長らくその存在が伏せられてきたものの、民主化とともに再評価が進み、その悲劇性と郷土愛を感じさせる作風が、冒頭に挙げたオークション価格を記録するほどの爆発的な人気となった。
嘉義では、毎年、陳澄波の誕生日にあたる「2月2日」を「陳澄波の日」と定めている。街の至る所で彼の絵の印刷物や名前を目にするほど陳澄波は嘉義市民、さらには台湾人から親しみと尊敬を集める存在なのだ。
幻の絵「東台湾臨海道路」の行方
陳澄波が上山満之進の依頼を受けて描いた作品が山口県の防府市で発見されたことは、台湾でも大変な話題となった。「幻の絵」をぜひともこの眼で見たいと考えた台湾に住む私は、今年の春節休暇を利用して帰国し、防府図書館を訪れた。
しかし、すでに絵はそこに無く、昨年12月、「福岡アジア美術館」に10年契約で寄託されたとのこと。理由は、これほど貴重な絵を保管できる施設が県内にないからだという。
確かに防犯設備が行き届いた美術館や博物館ならいざ知らず、一般の市民が通う公立の図書館である防府図書館が、「盗難などに遭おうものならエライことだ」と過剰反応しても無理からぬことだ。
しかし、防府市には「毛利博物館」や天満宮の「宝物館」があり、山口県内にもいくつか美術館はある。それらと連携して、一時的にそこに保管している間に今後の取り扱いを検討する余地はなかったのだろうか。突如として福岡移送が決定された、そんな印象を私は受けてしまった。
防府図書館の前身「三哲文庫」は、上山満之進が生まれ故郷の文化育成を目的に、私財を投入して建てた地域の図書館である。戦後は「三哲文庫」から「防府市立防府図書館」へと名前をかえて今に至る。
今回の絵も、上山満之進より図書館へ寄贈された物の一つだ。かつて「三哲文庫」を撮った写真には、読書する子どもたちを静かに見守る「東台湾臨海道路」の姿がしっかりと写り込んでいる。
地元・山口の人もあまり知らないが、山口県と台湾の関係は非常に深い。19人いる台湾総督の中で、児玉源太郎はじめ、実に5人までもが山口出身者である。また「蓬莱米」を普及させた農学者の磯永吉は引き揚げ後に山口県の農業顧問となった。台湾民俗研究に大きく貢献した先史学者の国分直一も晩年は山口県で教鞭を執り続けた。台湾最初のデパートである台北の「菊元百貨店」を創業した重田栄治、今も人気の観光スポットである台南の「林百貨店」の創業者・林方一も山口県人だ。そして、そもそも山口県下関市は、清国が日本への台湾割譲を決めた「下関条約」を締結した場所でもある。
私も山口で育ったが、10代後半で山口を離れた後、長らく台湾に大した興味も持たずにきた。台湾と山口にこんな浅からぬ縁があると知ったのは、恥ずかしながら最近のことで、以降、山口への愛着がより湧くようになった。郷土に対して愛情を持つには、その地の歴史や物語を知る必要がある。土地への愛とは、先人の抱いていた思いや願いを未来へとつなぐ作業だと、改めて感じた。
上山満之進の台湾愛と陳澄波の郷土愛が生んだ絵
上山満之進が台湾総督を務めたのは、1926年から28年のわずか2年だが、その仕事は今日でも台湾社会に大きく影響しているものが少なくない。例えば、上山が在任中に設立に尽力した「台北帝国大学」は、現在も台湾の最高学府で陳水扁や馬英九、蔡英文ら歴代総統の出身校「台湾大学」である。建築物のほかに多くのシステムや知的財産がそのまま引き継がれている。
注目すべきは、上山が台湾先住民の文化に対し理解を示していたことだ。その証拠に、防府図書館内にある上山満之進の資料室には、台湾総督時代に先住民居住地に何度も足を運んだことを記した新聞記事が多数展示されている。上山が台湾先住民に高い関心を持っていたことがうかがえる。
また、総督を退いた際、慰労金を投入して台北帝大に依頼した先住民族研究は、『台湾高砂族系統所属の研究』と『原語による高砂族伝説集』という学術書に結実している。日本統治時代から戦後の国民党統治にかけて、多くの先住民文化が失われてしまったが、研究資料として現存できたのは上山の功績が大きい。
上記の書物を編むための資金の一部をもって、上山は陳澄波に台湾時代の思い出となる「一枚の絵」の制作を依頼した。それが、今回見つかった「東台湾臨海道路」だった。
第一のテーマは「先住民」だったのではないだろうか。陳澄波が生まれた嘉義も阿里山山脈の麓にあり、山に住む先住民族との往来が盛んな地である。
今回の訪問団の世話人である山口県立大学の安渓遊地(あんけい・ゆうじ)教授は、「絵の中に描かれた東台湾の臨海道路は、1932年に完成した花蓮の蘇花公路と思われ、年代的に上山はその建設計画に関わっている。道なき道の上に暮らしていた先住民族の生活を大きく向上させた上山総督への敬意をこめて、陳澄波はあの絵を完成させたのではないだろうか」、そう想像している。
陳澄波文化基金会が開催した交流パーティーで、嘉義市の文化局長・黄美賢氏も出席し「絵を通して防府市との友好関係が深まり、多くの市民が行き来して交流が発展することを希望する」と語った。
これに対し上山忠男氏も、「上山満之進はあの絵を大切に東京の書斎に掛け、後に三哲文庫に飾らせた。在任期間は短くとも、台湾に熱い思いを持っていた。今回の訪問で、陳澄波もまた故郷を愛したことがよく分かった。この絵を元に、上山の故郷・防府と陳澄波の嘉義との交流を礎として日台の交流が進む。これが上山の願いに沿うものだと思うし、その第一歩として、まずは絵が防府に帰ってきて欲しい」と応じた。
上山忠男氏が福岡アジア美術館に確認したところ、10年契約ではあるが、簡易的な修復後に一度展覧会ができれば返還に応じるという。また防府市内の毛利博物館も、市の財産として絵の保管を受け入れる旨を表明しており、陳重光氏も上山忠男氏の「一日も早い防府市への返還を」という願いに賛意を示した。
上山満之進と陳澄波によって生み出され、先住民の生活改善への希望と願いが込められた作品「東台湾臨海道路」が、80年の時を超えて再発見されたのが昨年のことである。そして今年の8月には、新たに就任した蔡英文大統領が、歴代の政府を代表して「台湾という土地の元々の主人である先住民が長いあいだ差別されてきたこと」を謝罪するという歴史的な一幕があった。何とも不思議な巡り合わせではないだろうか。
ちなみに防府図書館にかつて掛けられていた「東台湾臨海道路」に接していた市民は、地元の「富海(とのみ)」の海岸地帯を描いたものだと思い込んでいたらしい。私も富海を訪れたことがあり、両者は驚くほどよく似ている。陳澄波がまさかそのことを知っていたとは思えないが、この世には理屈では説明できない「縁」というものが、確かにある。
2011年の東日本大震災での台湾から日本に送られた巨額の義援金をきっかけに、日本人が親しい隣人としての台湾に改めて気付き、テレビでも毎日のように台湾のことが話題に上る「台湾ブーム」とも言えそうな時代になった。しかし本当は、台湾と日本との関係は今に始まったことではなく、多様な関わり合いの歴史が、今もさまざまなかたちで残されている。今回も、それの一部に過ぎず、もしかすると、これからも別のどこかで似たような「発見」があるかもしれない。
バナー写真=嘉義市立博物館の庭園にある陳澄波の肖像彫刻と、防府市友好訪問団・山口県立大学の学生と教員たち(撮影=謝ひかり)