ビートルズがやって来た—来日50周年に振り返る4人の素顔

文化

ロンドン単独取材から1年後の来日

ビートルズが来日するという話を耳にしたのは、1966年の年明けだった。協同企画(現・キョードー東京)の永島達司さんに会った時に、ビートルズはどういう人たちだったかと聞かれた。いい人たちだけど、マネージャーのエプスタインは手ごわいなどと、雑談を交わした。ビートルズ来日の話が決まったのは、それからしばらくしてからだ。

来日公演の主催は、協同企画と読売新聞、中部日本放送との相乗りになった。6月30日から7月2日までの5公演で、コンサートのチケットを入手するには、読売新聞に往復はがきで応募、ライオン歯磨きや東芝音楽工業(ビートルズのレコードの発売元)など協賛企業の懸賞に応募、日本航空の往復航空券を買って応募などの方法で、抽選に当たるしかなかった。チケット欲しさに、全部に応募したという子もたくさんいた。

若者の熱狂ぶりの一方で、大人たちの中には、ビートルズの髪型を含めて、反感を持つ人たちも多かった。彼らが受け入れるのは、ブラザース・フォアのように髪を七三に分けてカレッジフォークを歌うバンドだった。

来日は6月29日未明。28日到着の予定が、台風の影響で遅れたのだ。同日の午後には記者会見が開かれた。舞台の上にビートルズの4人が並び、3名の代表記者しか質問できない取り決めだった。代表質問者がおもむろに巻物のような紙を広げて質問を始めたので、記者席にいた私は「何アレ」、と思わず笑ってしまった。こんな堅苦しいプレスインタビューとは思っていなかっただろうが、4人とも質問をウィットではぐらかすのがうまかった。

ジョン・レノンの奇妙な「乾杯」

来日中の4人に会ったのは7月2日の午後だ。彼らが滞在していた東京ヒルトンホテルの10階プレジデンシャル・スイートに、記者として正式に招かれたのは私だけだった。ただ、部屋は人の出入りが激しくて、一問一答の取材をする雰囲気ではなかった。4人は外出が許されなかったので、空き時間にはファンクラブに頼まれた絵を描いたり、主催者からプレゼントされた民謡などのレコードを聞いたりして過ごしていた。私が部屋に入った時には、カメラ屋や、着物、帯などを売る土産業者が品物を広げていた。4人は特にカメラに興味があり、私と同行した長谷部宏カメラマンに、どれがいいんだと聞いたりしていた。

1966年7月2日、東京ヒルトンホテルで。ジョン・レノンから「日本のキッズの間で流行っていることは?」と聞かれ、『おそ松くん』の“シェーッ!”を伝授。早速やってみせるジョンと、興味を示すリンゴ・スター。リンゴもポーズを取ったそうだが、写真は残っていない。

ジョンは部屋を出たり入ったりしていたが、突然テーブルの上のオレンジジュースのグラスを高々と上げて、 何か叫んだ。私には “The Beatles will fade out” と言ったように聞こえた。みんなは冗談だと思って笑ったが、そばにいたリンゴが、「ブライアン」とエプスタインを指さして、言った。「こんなにたくさん稼いだのに、僕たちは一歩も外に出られない。どこで使えばいいのさ?」

その後、エプスタンがスーッと私のそばに寄ってきて、指を口に当て、「今のジョンの発言は書いてはダメだよ」とささやいた。彼は真剣だった。

私が聴いた来日コンサートは、初日と最終日の7月2日の夜だ。彼らが歌っている間、嬌声(きょうせい)はすごいものの、歌声はちゃんと聞こえた。また、「イエスタデイ」を歌うときは、女の子たちが、「シーっ、静かにしましょうよ」とお互いに注意しあって、水を打ったように静かになったのを覚えている。

ジョンとポールのコラボ場面に居合わせた幸運

ビートルズ来日前と後では、日本社会のビートルズの受容が全く違う。来日前には、武道の“聖地”武道館を英国の長髪のロッカーなんかに使わせるなという反対運動もあり、“来日反対”の右翼の街宣車も出没していた。

それがたった5日間足らずの来日で、ビートルズを認めざるを得ないと、世間の空気が変わっていく。来日を境にレコードも発売枚数が桁外れに増え、あれやこれや書きたてていたマスコミも、好意的なトーンに変わった。ビートルズの音楽に無関心だった大人たちの間でも、聞いてみたらいい曲じゃない、という認識が広がったと思う。そして、ビートルズ以降、大きなコンサートは武道館で開催されることが普通になっていった。いろいろな面で若者に対するプレッシャーが緩やかになった気がする。

来日公演から半世紀を経ても、日本人のビートルズへの熱い思いは消えない。ビートルズを何度も取材した星加氏はトーク・イベントで引っ張りだこだ。

私自身は来日公演後の「最後のライブ・ツアー」となる1966年8月の北米ツアーの同行もオファーされて取材、以降、1970年の解散まで毎年ビートルズと顔を合わせることになった。その間、ビートルズの歴史の中で貴重な場面や、歴史的瞬間にも立ち会っている。そういえば、66年北米ツアーのシカゴでのオープニングコンサートの時には、リハーサルの合間に、シャワーを浴びたジョンが素っ裸で私の前に現れ、「ルミ、その椅子にかかっているタオルを投げてくれ」とニコリともしないで声をかけてきた。ジョークのつもりだったらしい。

1967年9月にはEMIスタジオで、ポールとジョンが一緒に「フール・オン・ザ・ヒル」の歌詞を仕上げながら、4人でレコーディングする場面にも居合わせた。ちなみに、この時にスタジオの隅っこに座っていた日本人女性が、この年の暮れにジョンと結婚することになるオノ・ヨーコだった。

1969年1月、今や伝説の「ルーフトップ・コンサート」にも偶然居合わせた。ビートルズとは関係のない仕事でロンドンに行ったのだが、彼らが設立したアップル社のスタッフから、屋上でビートルズが演奏するから来てみたらと言われて行ってみた。ビートルズの気まぐれで4人が久しぶりに集まったからやってみようぐらいのノリかなと思っていたのだが、その後アルバム『Let It Be』がリリース、映画も公開されて驚いた。

日本人にとってビートルズの思い出は宝物

1970年、ビートルズ解散のニュースには、残念だとは思っても、驚きはしなかった。68年ごろからアップル社はうまくいっていなかったし、4人も「ルーフトップ・コンサート」以外は、ほとんど会社に寄りつかなかった。「フール・オン・ザ・ヒル」ではジョンとポールが仲良く歌詞を作っていたけれど、『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』(1968年)を聞くと、2人の方向性がはっきりと違うのがわかる。やがては別々の道を行くのだろうと思っていた。

来日から50年経っても、ビートルズのことをまだ語っているとは、夢にも思わなかった。もちろん、彼らの曲にはいつの時代にどこで、どんな人が聞いても素直に心に入ってくる普遍性がある。ただ、来日何十周年というように、なにかにつけてビートルズ関連の大々的なイベントをするのは日本だけ。いつまでもビートルズの思い出を宝物のように大切にしているファンが日本には特に多いのかもしれない。

(2016年6月25日のインタビューを基にニッポンドットコム編集部が構成)

バナー写真:1966年6月30日、日本武道館で演奏するビートルズ(時事通信フォト)
本文中写真提供:シンコーミュージック

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