チェルノブイリ原発事故から30年、福島原発事故から5年:ウクライナのロケットと日本の衛星
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キエフから子供たちが消えた
チェルノブイリ原発で事故(※1)が発生したことが公表されてからの最初の数日間(※2)のことを、私は今でもはっきりと覚えている。それは、実に奇妙な日々であった。全世界がこの人類史上初の大規模な原発事故の行く末を固唾をのんで注視していた頃、私の住むウクライナの首都キエフでは実にのどかな日常が続いていた。人々の頭の中は目前の5月の大型連休のことで一杯であったし、このキエフからほんの少し離れた場所で発生した事故をただの火事の類としか考えていなかった。しかし、日を増すごとに原発事故の影響に対する人々の不安は強まっていった。
あの事故からちょうど30年が経過した今日、キエフから程遠くない場所に位置し、今では廃墟となった2つの町に繰り返し焦点があてられている。中世の町チェルノブイリと、原発従業員の町プリピャチである。しかし、私にとって原発事故の記憶の中で最も鮮明なのは、それらの町ではない。あの時の、うららかな春の陽光に包まれたキエフの光景なのである。一見、ごく穏やかな日常は続いてはいたが、キエフ中から子供たちの姿がこつぜんと消えてしまったからだ(※3)。
100万人都市であるキエフで、子供をまったく見かけなくなったということが、どんなに奇異なことであったか。それは実に不気味で恐ろしい光景であった。
ポロシェンコ大統領来日の意義
福島の事故を経験した人なら誰しも、自分にとっての震災の記憶というものを持っていると思う。3月11日、福島で大規模な原発事故が発生したことが報じられると、ウクライナの多くの人々の脳裏に、チェルノブイリに関するありとあらゆる記憶が走馬灯のように去来した。そして、福島の人々の痛み、日本中の人々の祈るような気持ちが、まるで自分のものであるかのように一人一人の胸の奥深くまで迫ってきたのである。
しかし、政治家や学者、専門家のなすべきことは、単に他者と過去の記憶を分かち合うことではない。原発事故の影響を克服するための作業を何としても成功させることである。
その意味で、まさに原発事故後の相互協力の道を模索することにこそ、4月初めにペトロ・ポロシェンコ大統領が訪日し、安倍首相やその他の日本の指導者たちと会談をする意義があったのではないだろうか。一見、ウクライナと日本の間には、経済協力の可能性の他にあまり接点がないように見える。しかし、両国は広大なロシアを挟んで隣国であり、同時にそれぞれがロシアとの間に問題を抱えている。
チェルノブイリと福島の悲劇は、両国を強く結びつける結果となった。日本は、2011年から今日までの5年間、事故後の状況を打開するための解決法を必死で模索し続けている。一方、ウクライナは、この30年間、事故後の対策において成功や失敗を数多く重ねてきた。そして国際機関による支援を活用するとともに、放射線が土壌や生態系に与える影響、住民の被爆による健康被害の調査などを行い、膨大な知見を蓄積してきた。日本にとっての福島と同じように、チェルノブイリは今日もウクライナの科学技術界が総力を挙げて取り組んでいるアポリアである。
進む2国間協力
2012年には、ウクライナ・日本原発事故後協力合同委員会(※4)が設立された。同委員会は、チェルノブイリで得られた知見を福島に生かすため、今日までの4年間、着実な歩みを続けている。ウクライナ政府と日本政府が、初めて合同でこのような委員会を設立したことは、非常に理に適っている。なぜなら、原発事故によって人類史上、最も苦しんだウクライナと日本こそが、今後、二度と事故を繰り返さないように、力をあわせて解決の道を探していくことが極めて重要であるからだ。両国は、自らの負の遺産を、未来の人類に資する叡智(えいち)へと転じていかなければならない。この意味においても、両国間の協力関係は今後も決して弱まることはないだろう。
何よりも重要なのは、放射能によって汚染された土地に再び生命を取り戻し、事故防止のための新技術を構築していくことである。東京大学やウクライナ宇宙庁を始めとする関係機関が進める「福島・チェルノブイリ周辺環境の国際共同モニタリング」の一環で、ウクライナのロケット「ドニエプル」(※5)によって、日本の超小型観測衛星「ほどよし3号・4号」が打ち上げられた(※6)。衛星による画像を用いて、広範囲にわたる災害・復興の状況を観測し、今後、長期間にわたり高度な解析が行われていく。ウクライナと日本の協力関係を示す象徴として、これほど相応しいものもないのではないか。
原文ロシア語
バナー写真:ドニエプルロケットに搭載中の「ほどよし3号」と「ほどよし4号」(提供:東京大学)
(※1) ^ 1986年4月26日1時23分
(※2) ^ ソ連政府は、当初、4月26日未明にチェルノブイリ原発で爆発が起こった事実を内外に一切公表せず、周辺住民への避難措置も取られなかった。翌26日の夜から28日にかけて北欧諸国で高線量の放射性物質が検出され、スウェーデン当局より問い合わせを受けたソ連政府は事故の事実を認めた。西欧ではニュースが駆けめぐったが、数日間の間、情報を遮断された首都キエフの市民には伝わらない状態が続いた。ソ連国内では、4月29日にテレビのニュース番組でチェルノブイリ原発で事故があったとのみ発表があった。ソ連当局は29日から、キエフへの外国人の立ち入りを禁止。キエフの状況も外に漏れない状況が続いた。
(※3) ^ 1986年5月6日 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現ウクライナ)政府によって、子供たちをキエフから避難させるという決定がなされた。
(※4) ^ 2012年5月に日本とウクライナとの間で締結された「原子力発電所における事故へのその後の対応を推進するための協力に関する日本国政府とウクライナ政府との間の協定」に基づき、2012年7月に東京で第1回会合が開催された。
(※5) ^ 大陸間弾道ミサイル(ICBM)を人工衛星打上げ用に転用した3段式液体ロケット
(※6) ^ 打ち上げは2014年6月19日19時11分(日本時間20日午前4時11分)