「夫婦同姓」合憲判決が示す“ザ・日本人” の家族観

社会

「皆同じ」でなくなることへの不安

また、同性婚についても、条例レベルでパートナーシップ証明を発行する自治体も出てきたものの、日本では諸外国とは違って法的容認への見通しは立っていない。同性カップルは、愛するパートナーと長く生活を共にしていても、結婚という制度の枠外にあるために、病院での意思決定や家の相続などもできない苦難を抱えるが、「紙切れ一枚」で当たり前のように結婚による法的保護を得られる人々には、その苦難はなかなか理解されず、「結婚は男女が自然」と片付けられてしまう。

全ての婚姻カップルに別姓にしろと求めているわけではなく、父性推定は必要ないなどと言っているわけではなく、もちろん男女の結婚に異を唱えているわけでもないのに、なぜ、困難な状況にある少数者の声に、「大した苦労ではないはず」「不自然」などと言って切り捨ててしまえるのか。そしてまた、社会もそれを「その通り」と言わんばかりに許してしまうのか、本当に不思議だ。自分と違う人々の権利保障をすれば、多数者の権利が損なわれるというわけでもないのに。

……と書いたが、しかし実は多数者は、少数派の権利が保障され存在が認められることに、不安や懸念を無意識のうちにも感じているのかもしれない。「皆同じ」でなくなれば、自分たちが当然としている存在の在り方が揺るがせられるかもしれない、と。そして実際にそれは当たっているのではないだろうか。

たかだか100余年の「伝統」に固執

夫が一家の「大黒柱」で妻子はそれに従い、妻が不便を強いられることがあろうとも、一家全員が自分の姓を名乗る。それが自然・当然とされているから、妻は多少の愚痴を言いながらも従っているが、もし「夫婦別姓も可能」となれば、妻や子が自分の姓を名乗らなくなるかもしれない、自分と一緒のお墓に入ってくれないかもしれない……。意識的に認めはしなくとも、それは「恐怖」であり、絶対に遠ざけねばならない可能性なのではないだろうか。だからこそ、夫婦が同姓を名乗るようになったのは1898年制定の明治民法で「夫婦同氏」が規定されてからの、たかだか100余年にすぎないのに、「日本の伝統」などと大仰なウソをついてまで(単なる無知かもしれないが)、意固地に防衛しようとする。

もちろん私は、多くの人々がそんな「卑怯」なことを考えて夫婦別姓選択制や同性婚に反対しているとは思わない。しかし、自らの「当たり前さ」を疑うことに拒否感を抱くことと少数者を認めたがらない意識がつながっているというのは大きく外れてはいないだろう。

とりわけ、アイヌや沖縄出自の人々・朝鮮半島にルーツのある人々などの存在はあっても、どこでも日本語が通じ肌や目の色など身体的特徴も似通った、つまり「皆同じ」中で生きてきた日本社会の人々にとって、異質の他者と出会うのは容易なことではないのかもしれない。ましてや、「同じ」と思っていたはずの人が、独自のアイデンティティを主張したり権利を求めたりすることに、違和感をおぼえて抵抗したくなったり、自分たちの存在の権威が傷つけられるかのように感じてしまうのもわからなくはない。

“特権” を手放さない「中高年・男性・健常者」

しかし時代は変わっている。今や、外資系は言うまでもなく、多くの企業がダイバーシティを掲げるようになっている。夫婦別姓選択制の場合とは違って、「違いを受け入れる」ことには多少の面倒くささや手間を必要とすることもあるだろう。障がいがある人々を職場に受け入れるにはバリアフリーの設備は不可欠だし、外国人の受け入れには多言語表記も必要だ。そんな手間をかけてまで、自分たちの存在の自明性、マジョリティであることの特権を損ないかねないことに踏み切るなんて、たしかに簡単に期待できることではない。

特に日本社会のマジョリティ中のマジョリティである「中高年・男性・健常者」の“ザ・日本人”が変わるのは容易ではないだろう。だからこそ、女性たちや若者など数では必ずしも少数ではない「マイノリティ」を含めた、マイノリティ自身が力をつけて変革の先頭に立っていくことが必要だ。

最高裁判事に、国会に、企業の管理職に、理事会に、自治会に……重要な意思決定の場にもっと多くの女性や若者が必要だ。もちろんその実現自体、社会と人々の変化が必要とされるわけで、ニワトリか卵かの話になりそうだけれども、断じてあきらめるわけにはいかない。

(2016年2月23日 記)

バナー写真=夫婦別姓訴訟の上告審判決で、最高裁に入る原告団(2015年12月16日/時事)

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