世界3億人もの失明の危機救う:ノーベル賞の大村智氏

科学 技術

塚崎 朝子 【Profile】

100人以上のチームで新規物質を探索

この一連の研究は、北里研究所にも恩恵をもたらした。共同研究を始めた頃の研究所の財政は火の車で、大村の研究室の存続さえ危うかった。世界の大手製薬会社を訪ねて回るうち、大村は改めて北里柴三郎の知名度を思い知らされ、研究所を守るべき使命感を抱いていた。

メルクの無償供与により、イベルメクチンの特許権料は動物薬などに限られたが、この1薬だけでも220億円以上の収入があり、研究所は一気に持ち直した。さらに大村は、経営の打開策として、第2病院の開設を提案。埼玉県北本市に 9万坪の土地を購入し、1989年に北里研究所メディカルセンター病院(現・北里大学メディカルセンター、当時200床)を開院した。特許料で購入した絵画が多数飾られ、院内でコンサートを開催するなど、“ヒーリングアート”という言葉もなかった時代から、その先鞭をつけた。これらは、大村が自分の取り分を大きく下げたことで実現した。大村は私財を投じて、故郷・山梨に温泉を掘削し、収集した絵画を収める美術館を開くなどして、自らを育んだ郷土への恩返しも果たしている。

大村グループの業績は、イベルメクチンだけではない。微生物が創り出す500種近い化合物を発見、うち26の化合物が医薬品や農薬、 研究用の試薬に使われている。

これには、独自の研究室のシステムが奏功した。ある活性の物を狙っても、なかなか目当ての物は引っ掛からない。大村の方法は、新規の化合物を見つけ出しでから活性を調べるという逆転の発想だった。わずか1グラムの土から何千という菌を分離して機能を探すグループ、合成などのグループもあり、学生まで入れると100人以上のチームで、他に類を見ないほどシステマティックに活性のある新規物質を探索する。

試薬開発でも医学に貢献 柴三郎の無念を晴らす

中でも、大村が最も思い入れが深いと振り返るのは、77年に射止めたスタウロスポリン。生化学分野で知らぬ者がないというほど有名な試薬だ。75年に岩手県水沢市の土壌から分離された放線菌が産生する。86年、協和発酵のグループが、スタウロスポリンのがん治療薬としての可能性を見出し、それを模した化合物として、慢性骨髄性白血病の特効薬であるメシル酸イマチニブ(グリベック®)や、ゲフィチニブ(イレッサ®)などが合成され、画期的な分子標的薬となった。

86年には、試薬となったトリアクシン(アシルCoA合成酵素阻害剤)を発見した。大村は、2013年にノーベル生理学・医学賞を受賞したジェームズ・ロスマンに手紙を書いてトリアクシンの使用を進言し、受賞対象となった小胞輸送の解明の研究をアシストしている。

大村は研究の傍ら、研究所の経営にも取り組み、社団法人北里研究所と学校法人北里大学の統合を主導した。新しい学校法人名を「北里研究所」とすることにこだわった。米国を始め7 カ国 のアカデミー会員に推挙され、国内外の賞を多数受賞。今も天然物創薬推進プロジェクトの推進役として、後進に助言を与え続ける。マラリア、結核、エイズなど、まだ人間が克服できない病を微生物が救う日を信じている。

北里柴三郎は第1回のノーベル賞(1901年)の候補に挙がっていたとされる。大村は先達である柴三郎を誰よりも敬い、再建に尽くした研究所で、自らのノーベル賞を呼び込んだ。北里が感染症征圧に賭けた思いも100年の時を超えて開花させた。

バナー写真:ノーベル医学生理学賞の受賞決定から一夜明け、学生らに拍手で迎えられ北里生命科学研究所に入る大村智・北里大学特別栄誉教授(右)=2015年10月6日、東京都港区(時事)

この記事につけられたキーワード

ノーベル賞 医薬品 健康・医療 大村智

塚崎 朝子TSUKASAKI Asako経歴・執筆一覧を見る

ジャーナリスト。読売新聞記者を経て、医学・医療、科学・技術分野を中心に執筆多数。国際基督教大学教養学部理学科卒業、筑波大学大学院経営・政策科学研究科修士課程修了、東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科修士課程修了。専門は医療政策学、医療管理学。著書に、『iPS細胞はいつ患者に届くのか』(岩波書店)、『新薬に挑んだ日本人科学者たち』『慶應義塾大学病院の医師100人と学ぶ病気の予習帳』(いずれも講談社)など。

このシリーズの他の記事