世界3億人もの失明の危機救う:ノーベル賞の大村智氏

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微生物由来の物質が、生命科学を前進

「微生物がつくってくれたものだけど、それを見つけることができて良かった」——大村智(おおむら・さとし)氏は、アフリカを訪れ、風土病であるオンコセルカ症(河川盲目症)で失明した人たちと接した際の感想をそう口にした。「微生物が作り出したものだから、自慢にはならない」と繰り返し謙遜しつつも、自分の開発した薬が、アフリカの生活を変えたことを心から実感したのだ。

伊豆の土壌にひっそりと潜んでいた菌は大村との邂逅を果たした結果、世界で3億もの人々が抱えていた失明の危機が、永遠に過去のものになろうとしている。この人類への貢献は、2015年ノーベル生理学・医学賞の受賞理由として非の打ち所がない。

私はライフワークの1つとして、2011年から現在に至るまで、日本人が開発に関わった創薬の物語を、医学雑誌に寄稿している。(講談社ブルーバックス『新薬に挑んだ日本人科学者たち』参照)。大村はノーベル賞に先立つ2014年、途上国の保健問題に貢献した科学者を顕彰するガードナー国際保健賞を受賞。その折にインタビューさせていただく機会を得た。大村たちが発見した多数の微生物由来の物質は、生命科学を大きく前進させている。その歩みを改めてご紹介したい。

定時制高校教員のかたわら大学院へ

大村は1935年、山梨県・韮崎の農家の長男として生まれた。富士山と八ヶ岳を仰ぐ自然に囲まれ、冬は寒さが厳しい土地柄だ。高校卒業後には家業を継ぐものと考えていたが、父が大学進学を認めてくれ、山梨大学学芸学部に進み化学の知識を深めた。卒業後、東京都立墨田工業高校定時制の教員をしながら東京理科大学大学院で学ぶ。有機化学の実験にのめり込み、5年かけて修士課程を終えると、母校山梨大学の工学部発酵生産学科助手に採用された。

そこで微生物の可能性に開眼した。山梨大学では特産のワインの研究が盛んだ。ブドウ糖は酵母の働きによって発酵し、1晩でアルコールに分解される。「とても人にはまねできない。微生物の力に自分の学んだ化学を融合させれば、進んだ研究ができるのではないか」と考えた。

本格的に研究を志し、65年に飛び込んだのが、日本の細菌学の父 ・北里柴三郎が創設した北里研究所。「技師補」という大卒級のポジションだったが、秦藤樹(はた・とうじゅ)所長の論文清書などをいとわずこなすうち、ぐんぐんと専門知識が蓄えられるとともに、信頼も勝ち得ていった。

研究費獲得へ、製薬会社と共同研究

秦は、ドイツのパウル・エールリヒとともに梅毒の特効薬サルバルサンを発見した秦佐八郎の娘婿である。秦は当時、自身が発見した抗生物質ロイコマイシンの構造解析を大村に委ねた。大村は見事にやり遂げ、その後も次々と実績を積み上げた。

しかし隣の研究室を見ると、新規物質を見つけようとしながらも、1年経っても見つからないことはざらにある。「人が苦労して見つけた物の構造決定だけではダメだ。私も泥をかぶってやろう」。大村は、新たな研究グループを立ち上げ、新規物質探しとその構造決定を 自分たちの仕事に据えた。

“構造決定の大村”の評判が立ち、71年にはウェスリアン大学(米コネティカット州)に客員教授に。大村を招いたマックス・ティシュラーは米国化学会会長で、前職は世界最大の製薬会社メルク社の研究所長という大化学者だった。大村は、伸び伸びと研究に打ち込み、一流の学者たちとの親交を得た。だが、渡米から1年半後に帰国命令が出る。日本の研究費は当時、米国の20分の1ほど。大村は、帰国後に使える研究費の獲得に奔走した。

大村は製薬会社に共同研究を提案した。北里研究所で微生物やその産生物質を探索し、試験管内の実験で目的とする生物活性のある物質を発見した場合、その特許を取得した後に、その物質を製薬会杜に送る。動物実験以降は製薬会社で行い、その物質を製剤化して実用化に成功した場合、ロイヤルティ(特許権使用料)を北里に支払うというものだ。

当時、産学連携に対しては、“企業の片棒担ぎ”との冷ややかな風潮もあった。だが「使える薬を見つけるには、企業と組まなくてはダメだ」と説得して回った。そして最も卓越した大村の戦略が、ヒトの薬ではなく動物薬に照準を定めたことだ。北里柴三郎、志賀潔らが連なる研究所の伝統からすれば、人命を救う薬を創れたほうがいい。しかし、世界中の大企業が血眼で取り組んでいるのに、自分たちのような弱小グループがやっても勝ち目はないとみた。ティシュラーと懇意のメルクをはじめ、ファイザーなど名だたる製薬会社から資金を取り付けることができた。

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