「忘れ去られた戦没者」と——バシー海峡慰霊祭

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門田 隆将 【Profile】

大好きだった弟の死とアンパンマンの誕生

一方、やなせたかしさんの弟、柳瀬千尋さんは旧制高知高校から京都帝大法学部に進んだ俊英だった。柔道も強く、文武両道を地でいく、やなせさんにとって自慢の弟だ。

幼い時に父を失った兄弟は、特に仲が良かった。千尋さんは幼い頃から、兄が近所の子供たちと喧嘩になった時も、自分は小さくて“戦力”にもならないのに、「兄ちゃんは僕が守るんだ」と言って、必死で兄に加勢するような弟だった。

やなせさんのエッセーには、小さい時に顔がまん丸だった千尋さんのことが何度も登場する。「僕は戦争が大嫌い」と言いつづけたやなせさんは、やがて、空腹の人たちに自分の顔をちぎって食べさせるという究極の“自己犠牲キャラクター”アンパンマンを生み出した。それは、千尋さんにそっくりな、まん丸い顔のヒーローにほかならなかった。

戦後日本の礎となった戦没者たちは、まさに自己犠牲を貫いた人々、言いかえれば“他者のために生きた人たち”だった。アンパンマンとは誰なのか——私は、そんなことを考えながら『慟哭の海峡』を書かせてもらった。

その柳瀬少尉が乗っていたのが、駆逐艦呉竹である。ここで対潜探知室の指揮官として、敵潜水艦をキャッチする使命を負っていたのだ。しかし、昭和19年12月30日、呉竹は、米潜水艦から2発の魚雷を受け、バシー海峡に沈んだ。

亡き父と10万人の戦没者のために読経

その呉竹の艦長が吉田宗雄少佐だ。慰霊祭で読経をあげてくれたのは、この故吉田艦長の遺児、吉田宗利氏(臨済宗禅林寺住職・73歳)である。宗利氏は、長く佐賀県で高校教師として教壇に立ち、県下一の進学校・佐賀西高校の校長も務めた佐賀教育界の重鎮だ。同時に吉田家は、小城市内の禅寺の住職を務めてきた。

3歳の時に死に別れた父親の顔を吉田氏は記憶していない。しかし、母親が亡き夫の海軍兵学校同期(六十二期)の文集に残した手記には、吉田氏が父と別れる時の様子がこうつづられている。

〈主人と長男は固く握手をして「じゃあ、行ってくるよ。元気でいるんだよ」と頭をなで、短い言葉を残して、決然たっていきました。虫が知らせたのか、長男宗利は、いつまでもいつまでも泣き叫んで、「父ちゃんについていくんだ」と駄々をこね、困らせました。主人がそれに答えるように幾度ともなく振り返り、手を振り振り元気でたって行った姿が、今もなお脳裏を離れません〉

その3歳の子供が、戦後70年を経て73歳となり、亡き父と、10万人におよぶ戦没者に対してお経をあげるために、佐賀県からわざわざやって来てくれたのである。

吉田住職の読経の中、遺族をはじめ多くの参列者が焼香を行った。私もその1人だ。風雨に耐えてきた潮音寺の2階本堂に順番に上がり、戦没者に手を合わせた。

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ノンフィクション作家。1958年生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社に入社。週刊新潮編集部で記者、デスクなどを経て、2008年4月に独立。主な著作に『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社/2010年、山本七平賞受賞)、『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所/2012年)、『慟哭の海峡』(角川書店/2014年)および『汝、ふたつの故国に殉ず―台湾で英雄となったある日本人の物語』(角川書店/2016年)などがある。門田隆将オフィシャルサイト

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