新国立競技場問題が日本人に問いかけているもの

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東郷 和彦 【Profile】

新国立競技場問題が示しているものはなにか。単なる公共工事の無駄遣いではない。東京の歴史と景観の継承こそが問われているのである。そして、この問題は今も東京中で持ち上がっているのである。

史的景観を守りえない国

2020年、オリンピックに来訪するすべての方々に対し泉岳寺は、羽田空港からの交通の要諦にある品川駅の近郊に位置し、日本の文化と精神を自ずから示す最高の「おもてなし」の場となるはずだった。

しかしスポーツの合間に日本を探訪しようという外国人が、中門の真横に立つこの8階建てマンションを見て、これがわずか5年前に反対運動にもかかわらず立ち上がったものであることを知ったなら、泉岳寺はおそらく、真逆のメッセージの伝達者となるにちがいない。

泉岳寺は、伝統文化とそれが作る景観を守りえない現代日本人の浅薄さと経済利益に堕した象徴として、私を含む現代日本人の恥の象徴として、これから長い間語り伝えられていくことになるだろう。

救いの希望は皆無なのだろうか。この期に及んでも皆無だとは思わない。しかし、それには必要な2つの与件があると思う。まずは、これまでの動きを元にもどし、東京の新しい表玄関としての、品川高輪口から泉岳寺に至る地域を総合開発するビジョンとデザインと資金力を持つ開発者が現れることである。

こういう開発のコンセプトの成功例が、本稿冒頭に述べた東京駅丸の内口にある。東京駅丸の内口は、伝統と文化の聖地としての皇居を背景とし、保存するに値する建物としての旧東京駅が加わった。さらに、駅周辺の明治・大正期からの建物の外壁の保存と併せて独特の空間美がつくりだされ、空中権の活用による高層ビルの建設により、その資金源をまかなったのである。

泉岳寺については、伝統と文化の聖地としての泉岳寺が同時に保存に値する唯一の場所となる。そこは、周辺の高さと構築物を伝統文化に合わせる低層地域とする。そして、品川高輪口から泉岳寺に至る地域を、空中権購入による高層ビルの限定建設と、江戸期からの風景を再構築する緑と水の回廊を併設することにより、新しい東京の震源地としての独自の空間がつくりだされる。

しかしそのためには、東京をしてそういう場所を包摂する場所にするという強い政治的意思が必須だと思う。国立競技場建設の白紙撤回をなしえたのは、1人、内閣総理大臣安倍晋三であった。「日本をとりもどす!」ことに目標を立てた政権が、このような形で日本の最も大事なことを失わせてよいのだろうか。

安倍晋三総理を支える日本を愛する政治家の中に誰か1人でも、身を挺してでもこの動きを止めなくてはと考え、それを実行する方はおられないのだろうか。

狂気の建設ラッシュから東京を引き戻せ

オリンピック招致が決まった後東京の迷走が続いていると思う。どうして今の東京にこれだけの建設ラッシュが始まってしまったのか。私にはよくわからない利益誘導の太い流れが動き始めているようである。

しかし、日本文明の今後を考え、少子高齢化の下で、最も住みやすく魅力ある東京を創るために今必要なのは、空き地という空き地で繰り広げられている建設ラッシュではないはずだ。

今必要なことは、高度成長期から乱開発として続いて来た建設を止め、造りすぎた建物を壊し、かつての東京に有った、緑と水と風の回廊を縦横にとりもどし、それと調和した形での技術の粋を凝らした建築帯を、選択的に造っていくことのはずである。

そういう東京こそ、オリンピックにおける最高の「おもてなし」となるはずである。国立競技場の白紙還元の動きが、こういう最高の「おもてなし」への誘引剤となることを願ってやまない。

カバー写真=もはや更地となった神宮外苑の国立競技場跡地(提供・時事)

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京都産業大学教授、同大学世界問題研究所所長。1968年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、外務省に入省。欧亜局ソ連邦課長、条約局長、欧亜局長、駐オランダ大使などを歴任し、2002年に退官。ライデン大学、プリンストン大学、ソウル国立大学などで教鞭をとり、2010年より現職。著書に『北方領土交渉秘録、失われた五度の機会』(新潮社、2007年/新潮文庫、2011年)、『歴史認識を問い直す:靖国・慰安婦・領土問題』(角川oneテーマ21、2013年)、Japan’s Foreign Policy 1945-2009: The Quest for a Proactive Policy(Brill Academic Publisher、2010年)など。

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