睡眠の本質に迫る:つくばに世界最先端の研究拠点
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国内外から200人規模の研究者
「嘆かわしい人生の短縮」―作家ヴァージニア・ウルフはそう呼んだ。我々は好むと好まざるとにかかわらず、人生の3分の1を「睡眠」という非生産的で無防備な状態に身を委ねている。哺乳類だけではない。ハエや線虫に至るまで、およそすべての動物が睡眠と覚醒を繰り返すという。では、なぜ眠るのか、「眠気」とは何物か——解明できればノーベル賞級の仕事だとされている。
その謎に本格的に切り込もうというのが、筑波大学教授の柳沢正史が率いる「国際統合睡眠医科学研究機構」(International Institute for Integrative Sleep Medicine : IIIS)。睡眠の基礎科学に焦点を当てた研究拠点だ。2012年に文部科学省の世界トップレベル研究拠点(WPI)の1つに採択され、年約6億円の研究費が10年間提供されて、国内外から200人規模の研究者が集う。
睡眠時無呼吸症候群など、差し迫って対処すべき睡眠の病気は多く、その診療や治療研究を行う臨床睡眠センターは多いが、その両輪となる基礎研究も欠かせない。IIISは、睡眠の本質に迫ろうという世界に類のない研究所だ。
睡眠、覚醒に関わる物質オレキシン
柳沢が、睡眠研究に本腰を入れ始めたのは、1998年に睡眠と覚醒のスイッチングに関わり、覚醒に傾かせるオレキシンという物質を発見したのがきっかけだ。
オレキシンと睡眠・覚醒の関係概念図
脳内の神経伝達物質であるオレキシンは、オレキシン受容体と呼ばれるたんぱく質と結合して作用を発揮するが、オレキシンと構造のよく似た物質を投与すると、これがオレキシン受容体と結び付いて、オレキシンの行き場がなくなり、睡眠を維持できる。米メルク社はこれを応用して「ベルソムラ®」(スボレキサント)という睡眠薬(オレキシン受容体拮抗薬)を開発、2014年に世界に先駆けて日本で発売した。
世界には不眠に悩む人があふれている。20世紀初めに登場したバルビツール酸は大量に飲むと呼吸まで抑えるほどの強力な薬で、自殺にも多用された。20世紀半ば以降、より安全なベンゾジアゼピン系、非ベンゾジアゼピン系という種類の睡眠薬へと発展してきた。
しかし、どれもこれもγ-アミノ酪酸(GABA)という神経伝達物質の働きを強めて脳の興奮を鎮めようという薬だ。強引に睡眠に持ち込もうとするので、自然な眠りとはほど遠く、禁断症状が出るので急にはやめられない不便さもあった。続けて使っていると薬の必要量が増えてしまう耐性が出たり、筋弛緩やふらつき・転倒などの副作用も深刻だった。
長らく、それ以外に睡眠を誘う方法は見つからなかった。2010年、体内時計を調節するホルモンであるメラトニンと似た作用をする薬が登場したが、睡眠のリズムを取り戻すには時間がかかり、速効性はない。
柳沢は筑波大学の大学院生時代、エンドセリンという強力な血管収縮物質を発見したことが、コレステロールの研究でノーベル賞を受賞したゴールドスタインとブラウンの目に留まり、米テキサス大学にスカウトされて1991年に渡米。後を追って留学してきた後輩の櫻井武(現・金沢大学教授)と共に発見した次の大金星が、オレキシンである。
“痩せ薬”一転、新たなメカニズムの睡眠薬を開発
当初その機能は全く分からなかったが、それをつくり出す細胞が、脳内の視床下部という食欲や体重調節に関与する場所に存在したことから、ギリシャ語で「食欲」を意味するorexisに因んで、オレキシンと命名した。
しかし、オレキシンを作れないよう改変したマウスを作ってみたところ、食べる量は正常なマウスよりわずかに少ないだけだった。そこで行動を観察してみると、これらのマウスは、急に活動を停止して倒れ込み、数分経って起き上がる。その異常な行動も脳波のパターンも、ヒトの過眠症の一種、ナルコレプシーという病気の症状と一致した。後に、ヒトのナルコレプシー患者の脳内でもオレキシンが欠乏していることが確認された。
実は、世界中の多くの企業は当初、オレキシンの食欲調節機能を応用した“痩せ薬”の開発を狙っていた。しかし、睡眠との関わりが強調されると、一斉に睡眠薬へとシフトした。柳沢は、オレキシンの作用を抑える物質(オレキシン受容体拮抗薬)を睡眠薬とすることには否定的だった。ナルコレプシーの症状が出かねず、薬として危険過ぎるからだ。
しかし、メルク社では、薬の候補物質をマウスに大量投与してナルコレプシーが起こらないことを確認し、より自然な眠りへと誘う薬を真っ先に世に出した。フランス語で「belle(美しい)+眠り(somnia)」に由来する「ベルソムラ(Belsomra)」は、15年3月には米国でも発売されるなど、これまで世界7カ国で承認され、年間5億ドル(600億円)以上の売り上げが見込まれている。
オレキシンの作用を活性化させれば、逆に、覚醒を維持することも可能になる。IIISでは、ナルコレプシーの治療薬(オレキシン受容体作動薬)の開発を目指している。ナルコレプシー患者は日本人の約600人に1人とされ、日中強い眠気を生じて生活に支障をきたすが、決定的な治療はない。ナルコレプシー治療薬だけでは市場が小さいが、時差ぼけ、うつ病、アルツハイマー病、薬の副作用などでも生じる、さまざまな眠気を抑える薬になる可能性がある。既に動物実験で薬効を確認できている。
遺伝子をたどり、睡眠異常の原因探る
大学発の創薬は実用化が視野に入っているが、それはIIIS全体の研究の一部にすぎない。
睡眠を調節する因子には、大きく3つある。まず、体内時計(概日リズム)による制御で、ヒトの脳には、地球の自転に合わせて、ほぼ24時間周期の体内時計がある。また、恒常性維持機構(ホメオスタシス)にも制御され、長く覚醒して脳の「疲労」が蓄積すると眠くなる。さらに、情動によっても睡眠は調節され、感情が高ぶると眠れない。
しかし、これらの現象が観察されても、脳内で起こっていることは分からない。科学研究とは、まず仮説を立て、その仮説を検証していくプロセスだが、睡眠はブラックボックスが大きすぎて、意味のある仮説が立てにくい。そこで現象から、その原因となる遺伝子にたどろうというアプローチを採用した。
マウスに突然変異を起こさせる化学物質を投与すると、DNAがランダムに傷が付いたマウスができる。こうしたマウスを約1万匹作り、脳波を測定してみると、その睡眠/覚醒のパターンに異常を示す少数の個体が見つかる。それが遺伝子異常に由来するのであれば、次世代にも遺伝する。これまでに、睡眠が極端に長くなる家系、レム睡眠が極度に短い家系などで、それらの原因となる遺伝子変異が突き止められた。これらが、将来、睡眠にかかわる病気の治療ターゲットとなる可能性もある。
柳沢が最初に発見した血管収縮物質エンドセリンも、肺高血圧症という難病の治療薬「ボセンタン®)に応用されている。柳沢は医師であり、患者への還元には思い入れが強い。かといって「治療だけをゴールにすれば、視野が狭くなる」と語り、「睡眠の根本に迫る仕事」を志す。2015年3月には、古巣のテキサス大学との共同研究で、マウスの脳内に体内時計を調節するペースメーカー細胞が存在することを証明して発表するなど、成果が出始めている。
6月、8000平方メートルの広さを持つIIISの研究棟が完成し、牙城は強固になった。長年暮らした米国流を採り入れ、研究員の人数やスペースにも流動性を持たせ、テーマの進捗によって塩梅する方針だ。
「神は、人生の多くの心配ごとへの代償として、我々に希望と睡眠を与えた」(ヴォルテール)。その希望が、一つでも多く生まれてくることを願う。