テレサ・テン没20年。今も変わらぬ「アジアの歌姫」人気
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没後の売上げ300万枚
80年代に日本でも数々のヒット曲を生んで人気を博した「アジアの歌姫」テレサ・テン(鄧麗君)が、タイのリゾート地チェンマイで喘息発作のために急逝してから2015年5月で20年が経った。相変わらず彼女のヒットソングはカラオケリクエストの上位にランクしており、没後に日本で発売されたCDやDVDの売上総数は300万枚に近づいている。日本人にこれほどいつまでも愛されている外国人歌手は珍しい。その抜群の歌唱力や愛くるしい容姿、それだけが人気の理由ではないはずだ。
テレサ・テンは音楽好きな母親の影響を受けて、小さい頃から中国の伝統歌謡に親しんでいた。そのため歌詞の大切さがよくわかっていたのだろう。「詞」とはもともと、「曲子詞」(歌謡文芸)を縮めた言葉である。中国では「詩」よりも一段低い位置に甘んじていたが、宋代にその叙情性が認められると名だたる文人が「詞」を作り様式が完成、文学的地位を確立していった。
その宋代の詞に現代の作曲家がメロディーをつけたテレサ・テンのアルバム『淡淡幽情』(1983)は傑作だ。いにしえの文人がつづる人生の悲哀や望郷の念をテレサが歌い上げると、時空を超えて胸に迫るものがある。
語り歌の天才、数々の歌謡曲を中国語でカバー
テレサは日本語の曲を歌う時も同様に、とても「詞」を大切にした。通訳を通して言葉の意味を作詞家やプロデューサーに何度も尋ね、自分のものにしてからでないと決してレコーディングに進まなかった。歌詞に含みを持たせて丁寧にメロディーに乗せて歌う“語り歌”という歌唱法は、聴く者にとっては自分だけに、プライベートに語りかけてくれるようで、ファンの心をわしづかみにした。
こうした歌唱法が幸いして、テレサ・テンが中国語でカバーした日本の歌謡曲は台湾、香港、中国、東南アジアへと浸透していった。
テレサは、自身のヒットソングの他にも日本の歌謡曲を中国語で数多くカバーしている。1980年に米国ロサンゼルスで一年間暮らしている間、日本の多くの曲を中国語で録音した。それらが次々にミュージックテープやCDとなってアジア各国へ拡散していったのである。
2002年にベトナムを訪問した小泉純一郎元首相が、宴席でベトナムの閣僚と『北国の春』を唱和し、現地のメディアで大々的に報道されたことがあった。小泉元首相が余興を披露できたのも、テレサ・テンが日本の歌謡曲を東南アジアまで広めてくれたおかげだ。私自身も日本の歌謡曲を台湾、中国、ベトナム、カンボジアなどの各都市のカラオケで現地の友人たちと共に歌い、どれほど交流を深めるのに役立てたことだろう。
内包するアイデンティティーの複雑さ
テレサ・テンに関してもう一つ言い添えたいのは、その言動が日本人にアジア、特に華人社会の多様性を考えさせたことである。
彼女が日本デビューを果たしたのは1974年。日本が中華民国と断交し、中華人民共和国と国交を回復した2年後のこと。すでに台湾、香港、東南アジアでトップスターになっていたテレサ・テンがあえて新人歌手として日本市場に挑戦したのは、マーケットの大きさもレベルの高さも図抜けていた日本で成功しない限り正真正銘のアジアのスターにはなれず、その先の世界市場への飛躍も見えてこないことをわかっていたからだろう。しかし、一般の日本人は、アジアからの出稼ぎ歌手がまた一人増えたくらいにしか彼女のことを見ていなかった。
1979年、インドネシア籍のパスポートを使って日本に入国したいわゆるパスポート事件を起こして国外退去となった時、その背景にある外交的に孤立した中華民国の存在に、ほとんどの日本人は思いが至らなかった。
それが1982年あたりから改革開放政策が進んだ中国で、“白天聴老鄧、晩上聴小鄧”(昼間は鄧小平の言うことを聞き、夜になれば鄧麗君を聴く)と言われるほどテレサ・テンが人気者になっているとか、彼女が歌う『何日君再来』が精神汚染キャンペーンのやり玉に挙げられているというニュースが日本にも入ってくると、彼女を見る日本人の意識が変わっていった。そして彼女が内包する複雑なアイデンティティーにも徐々に目を向けるようになった。
天安門事件でパリに旅立ったテレサ・テン
1984年、テレサ・テンは日本再デビューを果たした。それから1987年までの4年間は『つぐない』、『愛人』、『時の流れに身をまかせ』、『別れの予感』と連続で大ヒットを飛ばし、日本有線大賞、全日本有線大賞の二冠を3年連続で受賞。1985年には念願のNHK紅白歌合戦への出場も果たした。
日本での芸能活動が頂点に近づいた頃、テレサは従来の活動に疑問を感じたのかレコーディング以外の芸能活動を休止してしまう。その原因を末弟の鄧長禧は、「長い芸能生活を送った末の倦怠感」と説明してくれたが、日本からの莫大な印税収入によって生活にゆとりができたため、本当に自分のやりたいことを模索していたのだろう。そのひとつが両親の生まれた国でのコンサートだった。しかし1989年に起きた天安門事件で計画が頓挫。彼女は突然香港からパリへと生活の拠点を移してしまう。
1991年、私はパリ滞在中のテレサ・テンから話しを聞く機会を持ったが、いま、ここにいるのは決して逃避行ではなく、「いつか民主化された中国に帰るため」の準備なのだと話してくれたことが忘れられない。
「華人」としての目覚め
外省人(戦後、国共内戦に敗れた国民党軍とともに台湾へ逃れてきた中国人)二世として台湾で生まれた彼女は、父祖の国と自分の生まれた国の間で長い間アイデンティティーの問題に苦しんだ。しかし、海外に住むようになって自分を国籍と関係の無い「華人」と位置づけていたようだ。中国の伝統的な文化アイデンティティーを支えとして・・・。そんなテレサ・テンは、いつの日か天安門広場でチャリティーコンサートを行いたいという夢を持ち続けていた。そのためにボイストレーニングや作曲の勉強をし、新しい音楽に刺激を受けていると話し、実際努力を重ねていた。
1993年に久しぶりに来日した際、出演したテレビ番組の中で「私はチャイニーズです。どこで生活していても,世界のどこにいてもチャイニーズです」と語った時、私たち日本人は中国、台湾、香港の人々、および世界にちらばる華人たちの心情を垣間見ることができたように思う。このセリフは、天安門広場を埋め尽くした祖国の聴衆にこそ彼女が語りかけたかったものだろう。
テレサ・テンは、私たちにとって流行歌手以上の存在であった。日本の歌謡曲をアジアに広げ、歌でアジアと日本をつないでくれたテレサ・テン。自分の生まれた台湾、父祖の国中国、終生愛した香港など、それぞれの社会の底知れぬ深さを私たちに知らせてくれたテレサ・テン。私たち日本のファンはそのビロードのような声と共に、彼女の短くも美しく燃えた人生を忘れない。
(2015年5月28日 記)
タイトル写真:ユニバーサルミュージックジャパン提供