ヒロシマ・鎮魂の式典と原爆ドーム

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原野 城治 【Profile】

原爆投下目標の決定

原爆開発については、1943年当時のルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が、原爆に関する情報の独占について取り決めを行い、両首脳は1944年9月に原爆が完成したら日本に対して使用することを決めた。

1945年4月以降、目標検討委員会が数回開催され、京都、広島、横浜、小倉の4都市が目標に選ばれたが、朝廷があった京都はのちにはすざれた。

原爆実験成功から9日後の同年7月25日に原爆投下命令が下され、翌7月26日に日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表されたが、日本がこれを受諾しなかったため原爆投下は不可避の情勢となった。

1945年8月6日午前8時15分 原爆投下

原爆投下の特別部隊は1944年9月に編成された。爆撃機B29の熟練パイロットであるティベッツ大佐が部隊長に任命され、米国内で投下のための訓練を積んだ。1945年7月には米国本土から原爆投下の発信基地であるグアム島近くのテニアン島に移動。

同8月6日、機長ティベッツの母親の名前を付けた原爆搭載爆撃機B29「エノラ・ゲイ」は、爆発観測と記録撮影のための随伴機2機とともにテニアン島を発進、午前8時15分広島市の相生橋を照準に原爆を投下した。43秒後、相生橋の南東300メートルの島病院の上空600メートルで原爆は炸裂した。

推計で14万人が死亡

原爆投下時の広島には約35万人の市民、軍関係者らが生活していたと考えられている。原爆が爆発した瞬間、灼熱の火球ができ、きのこ雲が湧き上がった。火球の中心温度はセ氏100万度を超え、爆心地周辺の地表の温度は3000~4000度に達したとみられている。

同時に、強烈な熱線と放射能が四方に放射されるとともに超高圧の爆風が起こり、広島市内は跡形もなく破壊され、甚大な被害を受けた。原爆による死亡者総数は、今でも正確に把握されていない。しかし、広島市の推計によると、原爆による急性障害が一応おさまった同年12月末までに約14万人が死亡したと推計している。

原爆死没者慰霊碑(正式名称「広島市平和都市記念碑」)

2年後から始まった平和記念式典(平和祭)

広島市は毎年8月6日、原爆被爆者のめい福を祈り、核兵器廃絶、世界平和の実現を祈念して「平和記念式典」を開催している。毎年国内外から約5万人の人々が参列している。最初の式典は1947年8月に開催された「平和祭」であり、参列者は約2000人だった。第1回平和祭で、当時の濵井広島市長が「平和宣言」を発表、以後歴代市長が平和宣言を発表し続けている。

また、1955年8月には平和記念資料館が開設され、被爆の実相を継会える資料集めとそれを後世に残す作業が今でも継続されている。

平和記念資料館に展示された被爆者を見入る児童

世界遺産登録された「原爆ドーム」

国内外の多くの観光客が訪れる「原爆ドーム」は、1915年に「広島県物産陳列館」として開館したもので、物産の展示・即売や博覧会などが行われていた。原爆投下で大破全焼したが、その残骸をとどめた建物はいつしか「原爆ドーム」と市民らから呼ばれるようになった。

保存募金活動によって数回の保存工事が行われ、平和記念公園の一角に当時のままで残されている。鉄柵で囲まれた敷地内には、レンガのがれきが散乱し、原爆による被害がいかに強烈だったかを今にとどめている。

 

カバー写真=「原爆ドーム」といわれる旧広島物産陳列館

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政治ジャーナリスト。1972年時事通信社入社。同社政治部記者、パリ特派員、解説委員、秘書部長、編集局次長、ジャパンエコー社代表取締役を経て、2011年から16年3月までニッポンドットコム代表理事。2006年より日本国際問題研究所評議員。2008年「イタリア連帯の星」カヴァリエーレ章受章。2009年TBS番組コメンテーター。

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