「国難」級外交危機としての都議会女性差別ヤジ事件

政治・外交 社会

謝罪したが「問題の本質」を理解できない深刻

東京都議会の女性差別ヤジ事件の経緯は次の通りである。6月18日の都議会でみんなの党の塩村文夏都議会議員(35歳)が一般質問で、少子化問題にかかわる形で不妊などに悩む女性への対策を取り上げた際、「お前が結婚しろ」「産めないのか」などという女性差別的なヤジが自民党議員席の方から発せられた。23日になって都議会自民党は、発言の主は同会派の鈴木章浩議員(51歳)であることを明らかにした。鈴木議員も同日、発言の事実を認め、塩村議員に直接、謝罪の上、会派を離脱した。だが議員辞職は行わなかった。しかも、翌24日、自民党総裁である安倍晋三首相も、国会内でみんなの党の浅尾慶一郎代表に謝罪を行った。

報道によると、当初、都議会自民党は発言議員の特定に難色を示し、鈴木議員自身も当初、発言を否定。この5日間、周囲からの批判や圧力が謝罪に追い込んだことになる。

謝るくらいなら最初からヤジなど飛ばさなければよいのにと思うが、一連の対応を見る限り、本人も周囲の議会関係者も何が問題なのか、いまだに今一つピンと来ていないのではないかと思える。たとえば謝罪記者会見で鈴木議員は「少子化、晩婚化の中で、早く結婚していただければという思いだった。塩村議員を誹謗中傷する意図はなかった」と答えている。

執筆者自身は、この件を日本にとって重大な問題と捉えているのだが、その問題というのは、「当事者が今一つピンと来ていない」ということであり、この発言が「誹謗中傷する意図」のものではなかったと考えられている、そのことにあるのである。

「従軍慰安婦問題」との同質性――人権意識の欠落

この姿、日本の一定以上の年齢の人々が男女を問わず頻繁に犯す、ある種の失態の典型的なパターンである。そして近年のもっとも深刻な類似例が「従軍慰安婦問題」を巡る一連の国際的な騒動だ。「従軍慰安婦問題」は日本と韓国の間の歴史論争で、先の大戦中に日本が戦地に設けた売春施設が、管理売春制度によるものか戦場の「レイプ」か、を巡って事実関係を争っているものである。詳細は、関連図書でも読んでもらうしかないが、実は問題はその事実がどうであるかではない。

第一次安倍政権当時の2007年に、首相がこの問題についての認識を問われ、「広義の強制(慰安施設との契約という強制)はあったが、狭義の強制(軍による強制)はなかった」と発言したことが発火点になっている。韓国側が「軍による強制」であることに固執していたのに対し、戦前に合法であった管理売春制度の中のことであるという反論を行ったわけだが、これが国際社会、特にアメリカで大顰蹙(ひんしゅく)を受けることになったのである。

事実関係のみを取り上げるなら、私が知る限りにおいて安倍発言の方に妥当性があると思う。ただ、「広義の強制」なら問題なしと受け取れるニュアンスになった段階で、聞く者には、人権問題を性関係の問題に卑小化して逃げようとしており、なおかつ、その論理の前提として「管理売春制度」を是認していると受け止められてしまったのである。

日本ではこの問題についていまだに認識が甘いが、管理売春制度、つまり公娼制度は、女性にとってみれば最悪の人身売買制度であり、安倍発言は、それを国が制度として認めていた過去を“問題なし”としたとみなされたのである。軍が関与していようがいまいが管理売春制度は公的な人身売買であり女性人権の蹂躙の象徴である。過去においてどの文化でもそのような女性の社会的役割が存在したが、それは現代では絶対に否定しなければならないとされる差別の構造である。それを日本の首相が許容したと受け止められたことが、いまだに消えない日本国の傷となってしまったのである。日本は1958年にアジア諸国の中ではいち早く、管理売春制度を非合法化した実績があるにもかかわらず、である。

「ジェンダー論って何?」

これは最近の例であるが、ある評論家がディズニーのアニメ作品『アナと雪の女王』を題材に女性問題の分析を行い、併せて現在の何人かの日本女性の生き方を批判的に論じたエッセイが話題を呼んでいる。実はこのエッセイが有名になったのは、歴史のある月刊誌で掲載を拒否されるという事件を引き起こしたことによる。

何が問題だったのかと思い読んでみたが、内容はオーソドックスなユング派の物語・心理分析だった。要約すると、魔女の姉のために能力を封じられた主人公の女性が姉の愛によって復活するという物語を分析する際、この姉妹を一つの人格の二つ側面の象徴としてとらえ、「女性らしく(女の子らしく)振る舞え」という社会的な圧力に従順に自ら能力を抑圧した主人公(妹)が、能力を奔放に使うという役回りで主人公の人格の「影」を投影した姉と和解することで、充実した人格を獲得する、というもの。例えばフェミニズムの小説家、アーシュラ・ル・グゥインの『ゲド戦記』とそっくりの物語構造である。

出版業界では、皇室関係者や政権に近い女性の言動を批判的に取り扱ったことに問題があった、と取りざたされているが、実際のところは当事者以外分かるまい。ただこのように、伝統的女性観による抑圧という視点で実在の権威ある人物をうんぬんすること自体がタブーである、という考えが日本ではメディアにすら存在しているのは事実である。

一方、「女らしく」という社会的な規制は、女性に対する抑圧であり、その強制は女性に対する人権侵害であるというのは、実は欧米社会ではスタンダードな考え方なのである。これがジェンダー論の基本的な視点である。ところが、日本社会にはほとんどといってその意識がない。ないどころか、なんと議会で「女性は家庭に入って子供を産むもの」という発言が堂々とまかり通っている。それだけではない。国際社会から見れば、女性に対する最大の人権蹂躙問題である人身売買すら否定しなかった国なのである。

価値観を共有しているのか

もちろん現在の安倍政権は、ちゃんと過ちを改めている。首相も官房長官も「慰安婦問題」で圧力をかけられても、まず最初に女性人権問題への開明的姿勢を明らかにしてから発言するようにしている。

よほど、これまでの国際社会での批判がこたえたのだろう。近年、東アジアの安全保障環境が激変したことに併せ「価値観外交」という言葉が一時期流行したが、慰安婦発言以降はそれどころではなくなったようだ。民主主義がどうのこうのという以前に、人権問題に鈍感とみられては、同盟国と価値観の共有もへったくれもないからである。2007年の際には、共和党のコンドリーザ・ライス、民主党のヒラリー・クリントンといったアメリカの外交・安全保障の担い手たちまでが「激怒した」ことで、日本の外交関係者は頭を抱えることになったという。

今回の都議会のヤジ事件は確かにタイミングが悪かった。政府は発言の2日後の6月20日に、1993年に発表された『慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話』に対する検証作業の報告書を国会に提出している。一方、政権中枢以外の与党内外の政権支持者たちは、相変わらず従軍慰安婦問題を日本と韓国の間の歴史問題としか考えず、事実関係への言及と非難を繰り返している。だが、日本にとってこの問題の最も深刻な部分はそこではなく、アメリカとの間の人権問題にある。

今回の検証は、日本国内の慰安婦問題強硬派の圧力とアメリカの慰安婦問題批判圧力の両方のガス抜きを図るという、かなり微妙な作業であった。その発表直前に起きた相変わらずのジェンダー問題無知発言は、政権の足を引っ張る以外の何物でもなく、当然、謝罪までの間に様々なやりとりがあったものと想像できる。

謝罪でも根絶できない……

しかし、謝罪をしたからといって今後このような問題が根絶されるとは思えない。謝罪の文言の中にあるように、「お前が結婚して子供を産めばいい」とヤジることが「誹謗中傷ではない」と認識されているからである。このヤジは誹謗中傷発言ではない。差別発言だったから問題なのである。公職にある女性に対し旧来の価値観を押し付けることは、彼女に対する蔑視であり、しかもそのことに無自覚であるから問題なのである。そしてこの無自覚は、第2、第3の「慰安婦発言」や「ヤジ発言」が飛び出す可能性を暗示している。

「これは日本社会の価値観なのだから他国がとやかく言うことではない」と日本のしかるべき地位の女性までが発言することがあるが、それならば「自国の社会の中で重要な人権という概念を共有していない国と同盟を結ぶ否かは自分たちの価値観の問題」といわれても文句は言えない。「価値観の共有」が日本の同盟政策のイデオロギーであるとすれば、今回のヤジ事件は「国難」級の外交危機を暗示していると思えてならないのである。

カバー写真=都議会の一般質問中に差別的なヤジを受け涙を流す塩村文夏議員(写真提供=日刊スポーツ/アフロ)

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