ノーベル文学賞作家莫言の創造的読書

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2012年、ノーベル文学賞を受賞した中国の小説家莫言(ばく げん、1955~)はスウェーデンアカデミーでの受賞の席で、『講故事的人(物語を語る人)』と題した講演を行った。講演では、彼が育った山東省高密県東北郷での幼少期の思い出に多くの時間が割かれ、貧困や飢餓、孤独が、彼に暗い影を落としていたことが語られた。「小学校卒業即ち退学」、「荒地の草むらに行き牛や羊の放牧をする」(講演より)という莫言の幼少期の体験は、今日の中国ではほとんど見られないだろう。

川端『雪国』で自由な描写に目覚める

しかし、1960年代の中国の農村では、そのような状況は決して珍しいことではなかった。特に「文化大革命」当時は、小学校を卒業して中学校へ進学しても正常に授業は行われなかった。そして中学校を卒業してしまえば、大多数の人は「上山下郷」(農山村に長期間定住し思想改造を図るとともに、農山村の社会主義建設に協力すること。いわゆる「下放」)で、当時「広大なる天地」と呼ばれた農村へ赴いた。莫言少年の体験は、同世代に共通する幼少体験でもあった。莫言が他者より優れていたのは、痩せ細った大地のような環境下でも、村の年長者たちの言い伝えを教科書とし、社会や人生を教室とし、生命力旺盛な野草のように養分を吸収していたことだ。

講演の『講故事的人』だけでは、莫言文学が「“耳学問”による長い人生」から生まれたと誤解されかねない。一方、『童年読書(幼き日の読書)』『福克納大叔、您好嗎(フォークナー様、ごきげんよう)』などの彼の自伝的エッセイには、幼少期に読書に魅了され、大学の文学部に進んだ頃には大量の読書をしたことが記されている。莫言文学の源は、多種多彩であり、そこには古今東西の文学も含まれる。講演でも、特に米国のウィリアム・フォークナー(1897~1962)とコロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケス(1927~)を挙げている。

しかし、莫言文学に影響を与えた外国作家は、この二人にとどまらない。莫言はかつて、フォークナーを読んで「一人の作家が人物や物語、果ては地理さえも作りだして構わない」ということを知り、「フォークナーこそが『高密県東北郷』を私の小説に書き入れたのだ」と語った。(『福克納大叔、您好嗎』)

また、1980年代中期には、川端康成(1899~1972)の『雪国』の「黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた」という一文から、小説の自由な描写に目覚めたと語っている。『神秘的日本與我的文学歴程(神秘なる日本と私の文学経歴)』によれば、短編小説『白狗秋千架(白い犬とブランコ)』の「高密県東北郷原産の白く温和な大きな犬」という最初の一文は『雪国』に触発されたもので、「高密県東北郷」という故郷は、この時に初めて莫言小説に登場したのであった。

創造的読書が作り上げた“莫言ワールド”

莫言は大学に進んだ。しかし「文革」以前に大学を卒業した兄に比べ、彼自身は「小学校から順調に進学した」のではなく、「本当の大学に通ったことはない」と残念そうに語ったことがある。(『我的大学(私の大学)』)

青少年期に「文化大革命」に遭遇したにも関わらず、小学校、中学校、高校、大学と各学年に進学できたこと自体数少ない例外であり、莫言の発言は少々言い過ぎの感は否めない。

莫言が入学した解放軍芸術学院文学部は、作家の養成が目的であり、一般的な文学部と違い、多くの学生が入学前に作品を発表していた。学生たちが大学に通う目的は、作家の生涯や考え方、文学史における地位や影響などを子細に研究することではなく、自らの創作活動に役立てることだった。そんな校風の中で、莫言は読書にも特異な才能を発揮した。彼は、強く影響を受けたというフォークナー作品でさえ「数ページ読んだだけ」でその真髄を見抜くことができ、「どこかへ投げてしまった」という。(『福克納大叔、您好嗎』)

恐らく川端康成についても同じように読んだのだろう。莫言は1999年、初めて日本を訪れ、川端康成と縁のある伊豆半島の旅館を訪問するとともに、梶井基次郎(1901~1932)が『檸檬』を記した住居も訪れている。莫言は随行者の説明を聞きながら、川端や梶井が荒れ果てた山間で文学の情景について語り合っていたことに思いをはせ、二人の作家の友情に感動し自身の想像上の情景を次のように述べた。

「星がきらめく深い闇の下、曲がりくねった山道を、老若二人の魂が歩いている」。(『神秘的日本與我的文学歴程』)

実際のところ、当時の川端はそこまで老いてはおらず、梶井よりも2歳年上だけだった。莫言は明らかに自身の心の内の老いた川端と若い梶井をそこに置いたのだ。莫言の読書の方法は、もしかしたら陶淵明(とう えんめい、352頃~427頃)のそれに似ているかもしれない。『五柳先生伝』によれば、「好読書、不求甚解」(書を読むを好めど、甚だしくは解するを求めず)とあり、莫言もまた一般人には読み込めない何かを読み、奇抜な妄想をかき立て、フォークナーと川端康成を結び付け、一種独特な文学世界を作り上げたのではないか。莫言のこのような読書方法は、ある種創造的な読書といえよう。

大江健三郎との深い親交

2000年、北京で朝食をとる莫言(中)、大江健三郎(右)と筆者(左)

莫言らこの世代の中国作家が外国文学作品を読む際は、そのほとんどが翻訳本に頼らざるを得ず、翻訳から恩恵も受けたが、一方で翻訳によって縛られもしていた。1994年以前、大江健三郎(1935〜)という名は、莫言の耳にはほとんど届いていなかった。その年、大江はノーベル文学賞を受賞し、受賞演説の中で、特に韓国の詩人金芝河(キム・ジハ、1941~)と中国の小説家鄭義(てい ぎ、1947~)と莫言について取り上げ、「永続する貧困と混沌たる豊かさをひそめたアジアという、古なじみの、しかしなお生きているメタファー群において」、自らとこの3名の作家を結び付けた。(『あいまいな日本の私』)

その後、大江作品は大量に中国語へ翻訳されることとなった。2000年秋、大江は中国社会科学院の招きで北京を訪問し、そこで初めて莫言と会ったが、古い友人の如く親しげな様子だった。しかし、大江の多忙極まるスケジュールは、2人の親交をそれ以上深めることはできなかった。

2002年、大江はNHKによる莫言に関する取材のため、再び北京に降り立った。大江を出迎えた一行は、旅行鞄の中にぎっしりと詰め込まれた中国語、日本語、英語、フランス語など各言語の莫言作品を見て、大作家たる大江の真剣かつ厳粛な態度に一同感動を覚えた。

大江は、北京での滞在を手短に切り上げて、莫言の故郷、高密県へ赴いた。番組の当初の設定では大江が莫言の作品について論じる時間が多かったが、この頃には莫言も大江作品について相当な理解があった。彼は「ここ数年、大江先生の本を読ませていただき、ガルシア=マルケスやフォークナーを読んだ時と同じ感じを受けた。このプロセスは、私の小説の一部となるだろう」と語っている。(『作家莫言・農村よ輝け!』)

2000年、中国現代文学館前の莫言(左)と大江健三郎(右)

2009年、莫言は長編小説『蛙鳴』を世に送り出す。作品の主人公は語り部でもある「私」の「伯母」だ。舞台は高密県東北郷。「伯母」は数万人の命を取り上げた産婦人科医である一方、中国における「計画生育」(いわゆる一人っ子政策)の忠実なる実行者として、無数の命を殺してきた。小説ではこのように「命を繋ぐ者」と「命を奪う者」の複雑な人物模様とその境遇を描き出し、「私」もまた、たんなる部外者ではなく、時として事件に巻き込まれ、私心と臆病から間接的に赤ん坊殺しに加担することになる。

『蛙鳴』は日本の「杉谷義人」という作家への手紙を手がかりとし、「私」が「杉谷義人」へ後悔の念に満ちた語気で綴るものとなっている。小説によれば、私の「贖罪」意識は、「杉谷義人」が自身の父の代の戦争による侵略行為の罪を一身に引き受けたことに感化されたとある。莫言が大江健三郎から得たのは、作品中のたんなる一字一句からのインスピレーションや物語の語り方ではなく、人を強烈に感化させる人格と精神ではなかろうか。

(2013年1月24日、原文中国語)

大江健三郎