エルトゥールル号遭難事件から125年
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島民らの献身的救助で69人が命拾い
帰途に就いたのは、同年9月15日。しかし、日本政府は台風シーズンであることや、エルトゥールル号が建造後26年の木造船であったことから、出航を見合わせて船体修理をするように勧めた。ところが、使節団は、滞在延長がイスラム圏の“盟主”オスマン帝国の弱体化と受け取られかねないと懸念し、横浜港から予定通り出航した。
未曾有の遭難事故は、翌日9月16日夜に起きた。多くの乗組員が死亡、行方不明になる中、からくも逃れ樫野埼(かしのざき)灯台の下に漂着した乗組員は、灯台の灯りを頼りに40メートルもの断崖をよじ登り助けを求めた。灯台から知らせを受けた島民は暴風雨の中を総出で駆けつけ、危険を顧みず岩礁から生存者を救出した。
紀伊大島は、当時3村から成る約400戸の島だったが、食料の蓄えもわずかな寒村だった。それにもかかわらず、島民たちは非常用食料を供出し、不眠不休で生存者の救護に努め、殉職者の遺体捜索や引き揚げ作業にもかかわった。生存者69人はその後、治療のため神戸に移ったが、この時、明治天皇は侍医を、皇后は看護婦13人を派遣されている。
余談だが、トルコ水兵らが漂着した樫野埼灯台は、紀伊大島の東端断崖に建つ日本最初の石造灯台、しかも日本最初の回転式閃光灯台でもある。「日本の灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ブラントンが設計し、1870年7月に初点灯した。
「治療費はいりません」、発見された医師たちの手紙
神戸で治療を受けた生存者は10月初めに、日本海軍の軍艦「比叡」、「金剛」で、帰国の途に就いた。2隻には司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で有名な秋山真之ら海軍兵学校17期生が少尉候補生として同船していた。2隻が無事イスタンブールに入港したのは1891年1月で、トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎した。
最近、トルコ乗組員の手当てした紀伊大島の医師3人がトルコへ送った手紙(写し)が、地元のお寺で発見された。トルコ側が治療費用を請求するようにと要請してきたのに対し、医師たちは「初めからお金を請求するつもりありません。痛ましい遭難者をただ気の毒に思い行ったことです」との返信を出していた。
沈没海域を眼下に見下ろす丘に殉難乗組員の共同墓地が整備され、慰霊碑が建立された。串本町では今でも5年ごとに追悼式典を行っている。
2008年6月には、当時のギュル・トルコ大統領が、初めて同国大統領として遭難慰霊碑を訪れ献花した。また、トルコなどの考古学者によるエルトゥールル号調査が07年から行われており、08年に1000点以上の遺品を引き揚げた。125年の節目となる今年は、両国の関係者600人が出席して追悼式典が行われた。
95年後にトルコが「恩返し」
この両国の「絆の物語」には続きがある。イラン・イラク戦争で緊迫する状況の1985年、イラン在住の日本人200人以上が脱出できず途方に暮れていた。同年3月17日には、イラクのフセイン大統領が 「48時間後にイラン上空の全航空機を撃墜する」と世界に向けて発信した。
世界各国は自国救援機をイランに派遣したが、日本は自衛隊機もまだ法律的に直接派遣できず、民間航空会社も危険を理由に救援チャーター機にしり込みした。テヘラン空港に駆け付けた在留邦人はパニック状態になった。
その時、窮状を救ったのはトルコ政府だった。2機のトルコ航空機をテヘランへ派遣することを申し出て、215人の在留邦人を無事に救出することができた。当時イランにいたトルコ人は、日本人よりはるかに多い500人以上で、彼らは陸路を車で脱出するしかなかったという。この事実も日本人は知らないか、忘れている。
在留邦人たちの感謝の言葉に対して、トルコ政府ははっきりと答えた。
「私たちは、95年前の日本人の恩を忘れていません」
その恩が、軍艦エルトゥールル号の遭難事故における紀伊大島の島民の献身であることは言うまでもない。15年12月に公開される映画『海難1890』はこの2つの友情と絆を描いた感動の物語となっている。
文・村上 直久(編集部)
注:串本町役場製作の小冊子『原点のまち串本 トルコ日本友好』『南紀串本』を参考にした。
バナー写真:トルコから寄贈されたエルトゥールル号の銅像を前に握手する、ボスタノール海軍総司令官(左)と田嶋勝正・串本町長=2015年6月3日(写真はいずれも串本町役場提供)