エルトゥールル号遭難事件から125年
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125年前に起きたトルコの軍艦「エルトゥールル号」の遭難事故を、多くの日本人は知らないか、忘れている。トルコがとても親日的な理由の1つには、この未曾有の海難事故で、当時の日本人が身の危険を顧みず猛烈な台風の中、トルコ乗組員を必死で救助したことがある。
と同時に、日本とトルコが親善を深めようとした背景に、欧米列強国との「不平等条約」解消という19世紀末の“共通の想い”があったことを、日本人はほとんど知らない。
125年前の海難事故が生んだ「絆」
親善航海のため寄港した軍艦エルトゥールル号(排水量2,344トン、全長 約76m)は1890年9月16日夜半、帰航の途中、和歌山県串本町の紀伊大島沖で、猛烈な台風のために岩礁に激突、蒸気機関が爆発し二つに割れ沈没した。
この海難事故で、艦長以下587人が殉職。紀伊大島の島民たちの必死の救助で助かったのは、わずかに69人に過ぎなかった。しかし、この献身的な救助活動は、トルコ国民に直ちに伝えられ、今でも時代を超えて語り継がれている。この歴史的な“友情と絆”の物語が、2015年12月に日本・トルコ合作映画『海難1890』として公開される。
共通の課題だった欧米列強との“不平等条約解消”
なぜ、9000キロも離れている地からトルコ軍艦は遠路はるばる日本を訪れたのか。そこには、欧米列強国より近代化に遅れた日本とトルコの歴史的な共通性がある。19世紀末、オスマン帝国(トルコ)は、欧州列強国との不平等条約に苦しんでいた。このため、当時のアブデュルハミド2世皇帝は、明治維新以後、同じような米欧との不平等条約で苦労していた日本との友好関係を促進し、両国間で「平等条約」締結を図ろうとした。
実は、ここにもう1つ重要な伏線がある。トルコ軍艦の海難事故より4年前に起きた英国貨物船「ノルマントン号」(排水量240トン)の沈没事件だ。1886年10月、日本人乗客25人と雑貨を載せ神戸へ向かっていた同船は、暴風雨で和歌山県樫野崎の沖合(沈没場所は特定されていない)付近で座礁沈没した。その際、船長ら英国、ドイツの乗組員26人全員は救命ボートで漂流していたところを沿岸漁民に救助された。
明治政府を揺るがす事件に発展した英貨物船沈没事件
しかし、乗船していた日本人25人は船中に取り残され、全員が溺死した。韓国で2014年4月に起きた大型フェリー「セウォル号」転覆事故のような、船長らが乗客を助けずに逃げた事件をほうふつとさせる事態だ。
当時の明治政府は、事故に不審を抱き調査を命令、神戸の英国領事館に告訴するよう働きかけた。しかし、事件を審判した英領事は半年後、船長に軽い刑罰、それ以外は全員無罪の判決を下した。当時、日本は不平等条約を押しつけられ、外国人に対する裁判権がなかった。
国民は「日本人蔑視」と怒り、この事件を契機に領事裁判権の完全撤廃,条約改正を叫び、明治政府を揺さぶる事件に発展した。しかし、領事裁判権の完全撤廃は1894年まで待たなければならなかった。
オスマン帝国は、このような不平等条約に苦しんでいた日本に対して、善隣友好を持ちかけた。日本側もこれに応え、小松宮彰仁親王が1887年にトルコを訪問した。軍艦エルトゥールル号の日本派遣はその答礼で、乗組員約650人を乗せ1889年7月14日、イスタンブール港を出港、11カ月をかけ翌年6月に横浜港に到着した。
親善使節団は東京に3か月滞在、国賓として熱烈な歓迎を受けた。団長のオスマン・パシャは明治天皇に謁見し、皇帝からのトルコ最高勲章や様々な贈り物を捧呈した。
島民らの献身的救助で69人が命拾い
帰途に就いたのは、同年9月15日。しかし、日本政府は台風シーズンであることや、エルトゥールル号が建造後26年の木造船であったことから、出航を見合わせて船体修理をするように勧めた。ところが、使節団は、滞在延長がイスラム圏の“盟主”オスマン帝国の弱体化と受け取られかねないと懸念し、横浜港から予定通り出航した。
未曾有の遭難事故は、翌日9月16日夜に起きた。多くの乗組員が死亡、行方不明になる中、からくも逃れ樫野埼(かしのざき)灯台の下に漂着した乗組員は、灯台の灯りを頼りに40メートルもの断崖をよじ登り助けを求めた。灯台から知らせを受けた島民は暴風雨の中を総出で駆けつけ、危険を顧みず岩礁から生存者を救出した。
紀伊大島は、当時3村から成る約400戸の島だったが、食料の蓄えもわずかな寒村だった。それにもかかわらず、島民たちは非常用食料を供出し、不眠不休で生存者の救護に努め、殉職者の遺体捜索や引き揚げ作業にもかかわった。生存者69人はその後、治療のため神戸に移ったが、この時、明治天皇は侍医を、皇后は看護婦13人を派遣されている。
余談だが、トルコ水兵らが漂着した樫野埼灯台は、紀伊大島の東端断崖に建つ日本最初の石造灯台、しかも日本最初の回転式閃光灯台でもある。「日本の灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ブラントンが設計し、1870年7月に初点灯した。
「治療費はいりません」、発見された医師たちの手紙
神戸で治療を受けた生存者は10月初めに、日本海軍の軍艦「比叡」、「金剛」で、帰国の途に就いた。2隻には司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で有名な秋山真之ら海軍兵学校17期生が少尉候補生として同船していた。2隻が無事イスタンブールに入港したのは1891年1月で、トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎した。
最近、トルコ乗組員の手当てした紀伊大島の医師3人がトルコへ送った手紙(写し)が、地元のお寺で発見された。トルコ側が治療費用を請求するようにと要請してきたのに対し、医師たちは「初めからお金を請求するつもりありません。痛ましい遭難者をただ気の毒に思い行ったことです」との返信を出していた。
沈没海域を眼下に見下ろす丘に殉難乗組員の共同墓地が整備され、慰霊碑が建立された。串本町では今でも5年ごとに追悼式典を行っている。
2008年6月には、当時のギュル・トルコ大統領が、初めて同国大統領として遭難慰霊碑を訪れ献花した。また、トルコなどの考古学者によるエルトゥールル号調査が07年から行われており、08年に1000点以上の遺品を引き揚げた。125年の節目となる今年は、両国の関係者600人が出席して追悼式典が行われた。
95年後にトルコが「恩返し」
この両国の「絆の物語」には続きがある。イラン・イラク戦争で緊迫する状況の1985年、イラン在住の日本人200人以上が脱出できず途方に暮れていた。同年3月17日には、イラクのフセイン大統領が 「48時間後にイラン上空の全航空機を撃墜する」と世界に向けて発信した。
世界各国は自国救援機をイランに派遣したが、日本は自衛隊機もまだ法律的に直接派遣できず、民間航空会社も危険を理由に救援チャーター機にしり込みした。テヘラン空港に駆け付けた在留邦人はパニック状態になった。
その時、窮状を救ったのはトルコ政府だった。2機のトルコ航空機をテヘランへ派遣することを申し出て、215人の在留邦人を無事に救出することができた。当時イランにいたトルコ人は、日本人よりはるかに多い500人以上で、彼らは陸路を車で脱出するしかなかったという。この事実も日本人は知らないか、忘れている。
在留邦人たちの感謝の言葉に対して、トルコ政府ははっきりと答えた。
「私たちは、95年前の日本人の恩を忘れていません」
その恩が、軍艦エルトゥールル号の遭難事故における紀伊大島の島民の献身であることは言うまでもない。15年12月に公開される映画『海難1890』はこの2つの友情と絆を描いた感動の物語となっている。
文・村上 直久(編集部)
注:串本町役場製作の小冊子『原点のまち串本 トルコ日本友好』『南紀串本』を参考にした。
バナー写真:トルコから寄贈されたエルトゥールル号の銅像を前に握手する、ボスタノール海軍総司令官(左)と田嶋勝正・串本町長=2015年6月3日(写真はいずれも串本町役場提供)