SFアニメの到達点—押井守版『攻殻機動隊』の普遍性を読み解く
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2017年公開の米国映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、士郎正宗による日本のマンガ『攻殻機動隊』(1989年連載開始)を原作としている。だが、作中のビジュアルや設定の多くは、原作マンガを初めてアニメ映画化した押井守監督の『GHOST IN THE SHELL/ 攻殻機動隊』(95年)へのオマージュに満ちている。
押井版『攻殻』は、1996年にそのビデオソフトがビルボード誌の全米1位を獲得、全世界で大ヒットした映画『マトリックス』(99年)に影響を与えるなど、国内外のアニメ・特撮映像に強いインパクトを残した。主人公・草薙素子(くさなぎ・もとこ)が「戦うヒロイン」として魅力的であることはもちろん、人間の姿が風景に溶け込む「光学迷彩」というガジェットの視覚的な驚き、多脚戦車との重厚な銃撃戦などアクション演出が際立っている。このシリーズは押井監督による続編『イノセンス』(04年)を含めて多数作られているが、95年の『攻殻』は別格だ。その斬新さ、独自の世界観は、戦後から90年代半ばに至る日本の時代背景に関係している。
戦後日本の自画像としての「サイボーグ」
人間が機械の「義体」(サイボーグ化された体) を受け入れた未来社会を舞台に、公安捜査官たちが「電脳ネットワーク」を経由して情報交換しつつ難事件に挑む『攻殻機動隊』は、サイボーグをテーマとするSFである。原点を確認すると「cyborg」とは「cybernetic organism」の略で、体の器官の一部を人工物に置き換えることで,宇宙空間や深海底など異質の環境下で活動できるように改造された生物を指す。1960年代初頭に、冷戦時代の宇宙開発を背景に誕生した医学用語だった。
日本でこの言葉を広めたのは、64年に連載が始まった石ノ森章太郎のマンガ『サイボーグ009』だ。各地で戦争が果てしなく続く世界で、対立陣営双方に武器を提供する「死の商人」が組織化し、拉致した民間人をサイボーグ兵士に改造するのが物語の発端である。「戦争とサイボーグの親和性」が、色濃く描かれていた。
9人のサイボーグたちは組織を脱し、ヒーローとして活躍を開始する。元々は「人間兵器」として改造された彼らが、戦争目的の特殊な力を平和のために反転する構図に注目したい。そこには敗戦から50年代にかけて、「朝鮮戦争特需」を契機に日本が高度経済成長を果たしたことへの自省の念と、軍事技術の平和利用への社会的な動向が背景にあると考えられる。
70年代には公害問題が深刻化し、行き過ぎた科学技術の進歩が生んだ弊害への懸念が広がる。この時期にも「サイボーグヒーロー」が人気となった。同じく石ノ森章太郎原作による特撮テレビドラマ『仮面ライダー』(71年)である。同作は「変身ブーム」を巻き起こしたが、それは悪の組織ショッカーによって人間が奇怪な「改造人間」に変えられる悪夢の裏返しとも言える。歪んだ科学技術の応用が人間に及ぼす影響への潜在的恐怖心、それを乗り越えたいという願望が潜んでいる。
日本におけるサイボーグの題材には、「戦後日本の自画像」の一面がある。だからこそ大衆に受け入れられやすく、ブームを起こしたのではないか。
「電脳化」社会と「人の本質」への問い
1980年代には、いよいよ『攻殻機動隊』と密接に関係する変化が起きる。ウォークマン、テレビゲーム、パーソナルコンピューターなど電子技術の急激な発達がデバイスを進化させ、娯楽の傾向が「個」へと収束し始める。一方、国際社会では80年代末に冷戦が終結に向かい、局地的なテロリズムが台頭し、戦争が電子化して人間が排除されていく傾向が強まった。
「オタク」が注目されるのもこの時期からだ。個人の快不快や消費動向が社会性よりも優先されていく潮流の始まりである。個に向かう流れを補完するようにして登場したのがネットワーク通信だ。過去に前例のない意志交流の場と形態が立ち上がり、注目を集め始めた。こうした変化の反映で、「サイボーグ」と同じ語源の「サイバーパンク」という新しいジャンルがSFに誕生する。個人や集団の意識が大規模な上位構造(ネットワーク)に取り込まれて拡張 (電脳化)され、人と機械の関わりが過剰となった未来社会を舞台に、人と機械が融合した進化の新たな形態が描かれていく。
それゆえ士郎正宗の原作『攻殻機動隊』が登場した時、サイバーパンクの最先端という受け止められ方をした。細部まで考察が行き届いた設定と、電脳化された人々の日常が自然に感じられるほど情報に厚みのある演出力、そして「サイバー世界」の次に到来する世界観(ビジョン)の提示などが斬新な衝撃を与えた。
特に注目したいのは、「ロボットもの」とは逆のアプローチで「人の本質」を追求している点だ。「ロボットの人権」を考える手塚治虫の『鉄腕アトム』(1963 年テレビアニメ放映開始) は「フランケンシュタイン」から連なる人造人間の亜種で、「もの」を出発点に、科学の力で「人」に近い存在を作り出そうとする。ところがサイボーグの出発点は「人」である。何が損なわれれば「人」でなくなるのか、重要な器官が機械に置き換わっても「人」のままでいられるのか、その条件とは何か。
『攻殻機動隊』で繰り返し出てくる「ゴースト」も、こうした「人の本質」への問い掛けから出てきた言葉だ。定義はあえて曖昧にされているが、作中では主に個人の自我や意識、霊性を指して用いられる。押井版『攻殻』は原作から「人形使い」という「電子の海から誕生した新生命体」が「ゴースト」を獲得し、さらなる進化を求めるエピソードを中心に1本のストーリーとして再構築した。
近年、ディープラーニングやシンギュラリティ、バーチャルリアリティーが注目されている。『攻殻』の基調となる「人の本質」への問い掛けは、より身近な問題提起として受け止めることができるはずだ。
映像表現の進化をもたらす
押井版『攻殻』の公開が、1995年だということも興味深い。ちょうど「ネットワーク常時接続の現実化」が始まった時期なのだ。「Windows 95」の発売によりパソコンが急速に普及して「インターネット」が流行語となり、携帯電話がネットに常時接続され、ブロードバンド化が進む。体が機械化されなくても、手にしたデバイスでメールやメッセージを駆使することで、音声を介さないテレパシーのような意思疎通が可能となり、コミュニケーションの質と量が激変していく。まさしくサイバー時代が現実となりつつあった。
映像としての斬新性も押井番『攻殻』の魅力である。アニメ化で特に重視されたのは、「風景で提示する世界観」だ。押井監督は『機動警察パトレイバー 劇場版』(89年)で東京の実景をロケハンし、撮影された白黒写真を手掛かりに「実景の持つ存在感」を作中に取り込み始めた。『攻殻』では、返還直前の香港の雑然たる九龍地区でロケハンを行い、「中華風水没都市」というコンセプトで近未来の景観をまとめた。新旧が雑然と混じり合い、停滞と生活のエネルギーが一体となった背景美術のビジュアルは、人間性とは何かを問う禅問答のようなテーマの抽象性を補完する役割を果たしている。
もうひとつ見逃せないのは、アニメの「サイボーグ化」である。同作はアナログ制作時代末期の作品で、当時はセル画と背景画をフィルムに撮影するのが通常だった。そこにデジタル撮影処理や3DCGを混入させることで、映像表現の進化をもたらしている。独自の表現様式と内容が同調することで、観客は自然に俗世間を忘れて「サイバー的現実の向かう未来」へといざなわれる。観客の頭脳がハッキングされたような現象が起きるのである。
押井版『攻殻』は1995年の日本における現実と未来像を投影し、日本の「サイボーグもの」が60年代から連綿と問い掛けてきた「人の本質の探求」の総決算でもあった。その普遍的な問いを見事に映像化し、生命体の進化という人類史の未来につながるメッセージを言語に頼らず伝えることで、全世界を感嘆させた。それはまさに「ネット時代の神話」の誕生であり、映画史上独自のポジションの確立でもあったのだ。
(2017年5月15日 記/バナー写真 (c)1995 士郎正宗/講談社・バンダイビジュアル・MANGA ENTERTAINMENT)