鎌倉の大仏、半世紀ぶりの健康診断
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「実際調べるまでは、どうなっているかわからなかったのです」。今回の大仏像の健康診断を請け負った国立文化財機構、東京文化財研究所の森井順之主任研究員(39)が強調した。「創建から約760年の歳月を経た大仏像は、屋根もなく500年以上露座の状態で、海からの潮風、度重なる地震や津波、鳩などの糞害―そして特に最近は―酸性雨や、交通による振動などに晒され続けてきたので」。
「何が問題かは大体把握していました。しかし、それぞれが、どの程度の被害をもたらしているかまでは分りませんでした。今回、大仏像が、予想よりずっと健全で、かなりの錆びや汚れもクリーニングでき、ほっとしています」と森井は付け加えた。
鎌倉大仏像は、浄土宗と浄土真宗で尊ばれる阿弥陀仏像。阿弥陀仏に帰依する信者は「南無阿弥陀仏」と念仏を繰り返し、極楽浄土での往生を望む。
大仏像の至福に満ちた姿は阿弥陀仏の信仰を表している。2011年の震災と津波で16,000人以上の命が犠牲になった日に、修復を終えた大仏像が再び姿を見せた。鎌倉大仏殿高徳院の住職、佐藤孝雄(52)は、お披露目が3月11日になったのはあくまで偶然の結果という。
乏しい大仏像の来歴
鎌倉大仏像の来歴を記す史料は驚くほど乏しい。13世紀、鎌倉時代(1185-1333)の「吾妻鏡」によると、大仏建立は1252年に始まった。しかし歴史的な書類による完成時期も、作者の彫刻師も不明のままだ。
歴史的な根拠は不足しているものの、大仏像が500年以上露座であったのはほぼ間違いない、というのが森井の所見だ。鎌倉の大仏像は、もともと、奈良東大寺の大仏像のように、殿舎の中にあったことは分っている。しかし、いつ殿舎がなくなったかを明記する史書は知られていない。
14世紀末に記された「太平記」には、1334年の台風の時に殿舎が毀損したと記されている。16世紀に編纂された「鎌倉大日記」では、1369年の台風と1490年後期の地震と津波によって損壊したとの記事も見出せる。1486年の禅僧、万里集九の詩集、「梅花無尽蔵」によると、すでにその頃大仏像は、露座になっていたという。
直接触れ、胎内からも参拝できる唯一の国宝
「今回の保存・修理工事(診断・修復・洗浄)で、改めて強く思い知らされました。大仏像が、日本人にとってどれほど大切か」森井は、驚きをもって語る。「メディアはこの修理工事をこぞって報道。大仏像が覆われてご尊顔を拝めないと知りながらも、多くの方が高徳院に参拝にいらっしゃるのです」。
少なくとも、ほとんどの参拝客は、大仏像が覆われご尊顔を拝観できないことを、高徳院やその他の関連情報で聞き知っている。高徳院のウェブサイトでは、トップページで工事期間中は無料にて境内に入場できる旨が告知されている。途中、店で道を尋ねる度に、「大仏は拝めないよ」と教えてくれる。それでも、人々は足を運ぶ。
「たとえ尊容を拝せずとも参拝者は、覆い屋の中に座す大仏像の存在を感じておられるようです」佐藤住職は言う。森井もうなずき「多くの方が、大仏像に近づきたいと思われるようです」と言う。佐藤住職は、鎌倉の大仏像は、拝観するだけでなく、胎内から触れることもできる点で、特異な国宝仏だと言う。
「一般の参拝客が御尊体に触れられる国宝仏は、おそらく鎌倉の大仏像だけでしょう」と佐藤住職は言う。「文化庁の方々には、大仏の中に拝観者を入れることに顔をしかめる向きもおられます。実際、不届き者が残した落書き、チューイングガムなどを問題視し、参拝者を胎内に入れること自体を中止してはとのご意見をいただいたこともあります」。
「けれども、特に準盲の拝観者の方々にとっては、触れられることが、大仏像の大きさを知る助けとなります。また、厳冬期には凍てつき、盛夏には赤銅のごとく熱を持つ大仏像を掌に感じることは、拝観者にご尊像が過酷な環境に晒されている露仏であることを実感させ、一層の信仰心を掻き立てることにもつながっております。それだけに、単に文化財の保全という視点のみから、内部拝観を中止することには慎重を期さねばなりません」。
恥ずべき落書きにも歴史的な謎?
もちろん、たとえほんの一部の人々の仕業といえども、チューイングガムや落書きは、恥ずべき行為だ。森井は、「無数のチューイングガムを取り除きました」とため息をついた。「いくつかの落書きも消しました」。ただ、フェルトペンで書かれた落書きは溶剤で簡単に落ちたが、チョークや墨でかかれたものは消せなかった。もちろん、サンドブラストを使うこともできたが、それでは銅の本体を傷つけてしまうし、大仏像をありのままの姿で保存するという自分達の方針にも反することになる。
高徳院の落書きには、残念ながら、長い歴史がある。日本に始めて来航した英国船のジョン・サリス船長が、次のような証言をしている。サリスの船「クローブ」は1613年6月に長崎の平戸に入り、続いて江戸に向かい、引退した徳川家康や、時の将軍徳川秀忠に謁見している。サリスを案内したのは、「将軍」のテレビシリーズや、本でおなじみのウィリアム・アダムス(三浦按針)で、アダムスは、13年前にオランダ船の航海士として来航した。
駿河から江戸へ続く街道には、多くの家が立ち並んでいた。行く道すがら数多くの仏や寺院を見たが、中でも大仏像は圧巻で、銅で造られて内側は空洞だが、かなりの厚みのある像だった。高さは地上から約6~7メートルに思われた。尻をかかとに乗せて座し、腕は堂々と大きく、体全体は均整が取れている。そして袈裟を身につけていた。通りかかりの旅人は、尊敬の念を抱かずにはいられないような像だ。仲間の何人かは大仏像の内部に入り、声を出し、大きな音を立てていた。大仏像の内部には、旅人によるサインやマークが記されていて、私たちも同様にサインを残していった。(※1)
筆を使い、墨で書かれた落書きについては、いまだに謎だ。どの時代のものだとしても、通常参拝客がその場に筆と墨を持って来ていたとは考えにくい。森井は、19世紀後半もしくは、20世紀前半に、高徳院が参拝者に大仏像の胎内に名前をしたためるように勧め、お布施をいただいていた可能性もあると思っている。
一方、佐藤住職は、いかなる経済状況にあったにせよ、寺が率先して落書きをさせたとは考え難いという。もっとも、先代住職たちが、寺の経営に苦心し、収入の多くを参拝者の寄進に頼らなくてはならなかったことは認めている。「特に横浜の居留地に滞在、行動範囲が規制されていた外国人にとって、鎌倉の大仏像は、日帰りで行ける人気の観光名所であったようです」。
今日、年間200万人以上の参拝者が、鎌倉大仏殿高徳院を訪れ、そのうちの約20万人が外国人だ。「大仏像は特に、タイやミャンマーなど小乗仏教国の方々の信仰も集めています」と佐藤住職は言う。
ラドヤード・キプリング(1865-1936)は、「大仏と鎌倉」(1892)の詩でヤンゴンの輝かしいシュエダゴン・パゴダと金色の鎌倉大仏について、触れている。
半眼の瞼は見ておられるようだ
遠いシュエ・タゴンの黄金の塔の頂きから
燃える炎が発して東方に向かい
ビルマから鎌倉までの道を渡ってくるさまを(※2)
心の中に生き続ける仏像
大仏像は760年という驚くべき歳月、風雪に耐えてきた。今日私たちが眼にしている大仏像も、キプリング来日以前からの威厳に満ちた尊容を保っている。大仏像は、高さ2メートルの基壇の上にさらに11メートル以上の高さで建つ。両目はそれぞれ幅1メートルで、螺髪は、656個。銅製の大仏像の体重は121トンを計る。(高徳院のウェブサイトでは、鎌倉大仏像の鋳造法を動画で解説している)。
奈良の大仏像は、毘盧遮那仏または大日如来といい、鎌倉の大仏像より大きい。奈良の大仏像が何度も再建と修復が繰り返されてきたのに対して、鎌倉の大仏像は、今日なお760年前の創建当初の尊容を保っている。
唯一、鎌倉大仏像の創建当初との大きな違いを挙げるならば、金色の輝きを失ったことだろう。現在、大仏の両頬にのこる金の精査が進められているが、謎は深まるばかりだ。
治金学者によれば、鉛を多く含んだ銅に金メッキを施すのは不可能で、金箔を貼る以外の方法は考えられないという。しかし森井は「至近で観察してみたところ、必ずしも全身金だったとも言い切れない」との見解を示す。また、大仏像に改めて金箔を貼ることは、まったく考えていないとも付言する。
「私たちは、大仏像をありのまま、生き証人として大切に思っているのです」と森井は言う。「この仏様は、私たちが今、眼にしているそのままの姿で、何世紀も日本社会を生き抜いてこられたのです。修正という名のもとに“元の形かもしれない”という不確かなものに作り変える気はまったくありません」。
佐藤住職も、国宝に指定され、現状保全が義務付けられてもいる大仏像に再び金を塗ることなど全く考えていないと言う。
「もう一つ、謎があります」と森井が静かに言う。「一体世界のどこから、実際、これだけの量の銅を集めたのか。760年前の日本の銅の生産量を考えると、これだけの量を一箇所でまかなうのはまったく不可能なのです。そこで、私たちは、中国に目を向けました。治金学者は、宋朝時代の中国から輸入されてきたものと、大仏像の銅合金の含有率が似通っていることに目をつけたのです。しかし、これもまた、歴史的な記録が十分でなく、謎のままです」。
前回の「昭和の大修理」は、1925年に再建された基壇の修復を含んでいる。これは、大仏像が35cm前に移動した1923年の関東大震災によって壊れたものだ。この1960年代初頭の大修理では、内側からFRP(ガラス繊維補強プラスチック)で頸部周辺の補強を行った。また、大仏像本体と基壇の間にステンレスの板を挟みこんだ。地震時に大仏像が倒れず、滑動させることで、揺れを本体に伝えにくくするように考えられた免震装置だ。
「今回、このステンレス板も調査しました」と森井が言う。「板は、かなり良い状態でした。2011年の東日本大震災の鎌倉地域の揺れは、大仏像をスライドさせるほどの震度ではありませんでした。しかし、免震装置が、間違いなく機能するかどうかは、今後の課題です。何年もかけて研究していかなくてはいけないのです」。
「鎌倉と大仏」の詩の終わりにラドヤード・キプリングは、次のように語りかけている。
大仏などは、観光用の見世物、単なる伝説
黄金のはげかけた青銅の塊
それだけ、いやそれ以下としかきみたちには
鎌倉の意味はうつらないのか朝の祈りを終え、
法外な儲けをねらういくさへと出かける前に、考えてみたまえ
君らがあがめる神の子の方が
鎌倉の大仏より大事だときみには確信できるのか。(※3)
今後も津波堆積調査や三次元測量などの技術を駆使し、佐藤住職と森井は、齢(よわい)760の大仏像を見守り続けていく。
(原文は、2016年3月11日に英語で公開。バナー写真: 3月初旬にほぼ2ヶ月の診断・修復・洗浄を終えて覆いの中から新たに顔を現した鎌倉大仏像)