日本の「女性作家」にフランスの聴衆は耳を傾けた
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私は1995年から日本に暮らしているが、日本文学の翻訳家として、仕事でパリ国際ブックフェアを訪れた。今回招かれた日本の作家20人のうち女性は8人。この中の江國香織、角田光代、綿矢りさの小説家3人が初日の3月16日、「日本女性は何を思う」と題したトーク・イベントを行なった。日本女性が一体どんなことを考えているか、フランス人にとって興味深いテーマだったと思う。フランスには、一般に日本女性の声があまり聞こえてこないからだ。会場には100人近い聴衆が詰めかけ、立ち見もでたほどだ。
書き手の“性”で区別することへの疑問
日本の書店のコーナーは「ジャンル」で分けられている、と言ったら当たり前じゃないか、と思われるだろうか。しかし、フランス語の「ジャンル(genre)」という単語には「ジェンダー(性)」の意味もある。そして、日本ではまさに、書店のコーナーが性別で分けられている、という事実がある。
角田光代が「2000年代初頭まで、書店の文学コーナーは“作家”と“女性作家”に分けられているのが普通だった」と言うように、日本では長く女性作家による文学を「女流文学」なる呼び名で総称し、文学の一ジャンルとして扱ってきた。“男性作家”という呼び方はしない。
性別によるジャンル分けは、批評の分野でも一般的だった。江國香織によれば、「今でも文学批評は “女性特有の雰囲気や文体”にこだわる」ところが多いという。確かに文学作品以外では、著者の性別に焦点が当てられることはほとんどない。
フランス語について言えば、男性的あるいは女性的な文体があるというわけではない。私はこれまで男性作家(乙一『暗いところで待ち合わせ』など)の作品も、女性作家(宮部みゆき『魔術はささやく』など)の作品も翻訳してきた。例えば宮部みゆきの作品を訳すとき、率直に言って、女性が書いたものとは特に感じない。文学に“性”はあるのか、という問いも意識したことがなかった。
このトーク・イベントに参加した3人の作家については、綿矢りさの『インストール』と『蹴りたい背中』、角田光代の『対岸の彼女』を(フランス語で)読んだことがある。思い出してみれば、『対岸の彼女』には、女性的な雰囲気が確かにあった気がする。
しかし、それは登場人物のせいで、書き手が女性だったからではないかもしれない。想像力の産物である小説が、男の脳から生まれたか、あるいは女の脳から生まれたかで区別することに、果たしてどこまで正当性があるのだろうか?
日本の女性は男性より多くの問題を突きつけられている
3人の女性作家に共通しているのは、彼女たちが描く登場人物が男性より女性のほうが多いことだ。
綿矢りさは、これまで作品の中で描いた男性はたった1人だという。彼女自身はこれを「技術的な問題による選択」と説明する。
「私はそこまで男性心理に通じていないと思う。だから何人もの男性を登場させて、説得力のあるやり方で生命を吹き込むのは難しいと感じます」
ただし、これは単純に性別の問題とも言い切れない。女性を描く場合でも、自分より年齢が上の人物を設定すれば、同じような問題に突き当たるからだ。
江國香織の場合は、綿矢の問題を“乗り越えて”いる。転機は30代に入ってから訪れた。『カクタスホテル』(2001年)を書いたころだ。彼女は、小説の中の“性”と生活の中の“性”は異なる次元の問題だと気づいたという。それ以降、彼女の作品には、より頻繁に男性が登場するようになった。
角田光代はなぜ女性の登場人物を選ぶのか。それは、女性のほうが男性よりもおもしろい存在だからだという。日本社会では、女性は人生の中で数々の選択を迫られる。結婚や出産を機に仕事を続けるのか、やめるのかという選択もそのひとつだ。
「女性は男性よりも多くの問題を突きつけられ、自分への問いかけも多くなる。だからその心理は男性よりも興味深いわけです」
読者の性別、年齢層も重要ではない
主に女性を描くからといって、この作家たちがフェミニスト的なメッセージを発しているわけではない。女性の読者をターゲットとしているわけでもない。広く一般に語りかけようとしていることは3人とも同じだ。それは性別も年齢層も問わない。
角田光代は、女性の難しい立場を描く作品が多いだけに、自分が女性向けの作品を書く作家だというイメージをもたれていると語る。しかし実際のところ、読者は女性ばかりではない。「サイン会を開くとわかるのですが、来てくれるのは男性も女性もほぼ同じ割合です。年齢層もさまざまですね」。
江國香織は、自分の読者に女性が多いことを知っている。しかし、女性のために書いているわけではないと話す。ちなみに、彼女が作家としてのキャリアをスタートしたのは、児童文学だった。彼女にとって子供は理想的な読者だという。
「子供は、文学に対して真剣で厳しい視点を持っています。本当におもしろい作品でなければ読もうとしない。作家の名前など気にしない。その作家の別の作品を読んだことがあるかとか、その作家が有名であるかなど、どうでもいいのです」
彼女の頭には、今でもこうした読者像がある。書かれた作品に対して、厳しいけれども的確な目を持つ読み手だ。男性か女性かは重要でない。
綿矢りさにとっては、何よりまず、創作の過程の中で自分自身が楽しめるかどうかが優先される。作家活動の初期は、どちらかというとニュートラルな視点をとっていた。しかし今では、より女性的なテーマに向かうようになった。自分の作品を男性が読むことに驚きはあるというが、「いろいろな人々に読まれたほうがうれしい」のは確かだ。
東日本大震災を超えるために文学を「共有」
東日本大震災は文学表現にどのような影響を及ぼしたか。今回の様々な日本関連イベントで、やはりこのテーマは避けて通れなかった。聴衆にとって関心の高い問題であるし、作家自身にとっても必然的な問いに違いない。
角田光代によれば、「ショックと悲しみを通り越して、多くの人が人生という考え方を根本的に変える契機になった」。しかしこうした劇的な変化をどのように言葉で表せばいいのか。危機的な状況における作家の役割とは何か。彼女も繰り返し自問した。
3月11日の直後、震災について書いてほしいという依頼が次々と舞い込み、彼女は迷った。「書くべきか、書かぬべきか?」 彼女は作家として、今すぐこのテーマで書きたいという気は起らなかった。雑誌の特集で大災害に直面して心の糧となる本(※1)を推薦してほしい、などという依頼に応じるのが精一杯だったという。
江國香織も、自らの態度について選択を迫られた。その結果改めて確認したのは、小説家の仕事とジャーナリストの仕事は違うということだ。ジャーナリストに求められる即応性を小説家が必ずしも追求する必要はない。作家が考えなければいけないのは、何を拠りどころに書くか、この一点に尽きる。
綿矢りさも同じ考えだ。カタストロフィを自分の作品の中で扱うにしても、「フィルターを通して、間接的なやり方で」書くことになるだろうと考えている。しかし実際には、震災の直後、「何か書かなくてはいけないと感じた。居ても立ってもいられないほど動揺していた。何より読者と何かを共有したいという思いがあった」と振り返る。
このトーク・イベント全体を通じて伝わってきたことをまとめる言葉があるなら、「共有」という一語かもしれない。性の違いを超えて、言語の違いを超えて、日本を襲った地震、津波、原発という三重のカタストロフィを超えて、文学を「共有」することではないだろうか。
取材・文=ミリアン・ダルトア・赤穂(翻訳家)
パリ国際ブックフェア 日本の招待作家20人(姓のアルファベット順)^
江國 香織(小説家、詩人、エッセイスト、絵本作家、翻訳家)
古川 日出男(小説家)
五味 太郎(絵本作家)
萩尾 望都(漫画家)
平野 啓一郎(小説家)
堀江 敏幸(小説家、フランス文学翻訳者)
角田光代(小説家、エッセイスト、翻訳家)
鎌田 慧(ルポライター、ジャーナリスト、ノンフィクション作家)
加藤 久仁生(アニメーション作家)
駒形 克己(絵本作家、グラフィックデザイナー)
黛 まどか(俳人)
じゃんぽ~る西(漫画家、イラストレーター)
大江 健三郎(小説家)
関口 涼子(詩人、エッセイスト、翻訳家)
島田 雅彦(小説家、エッセイスト)
多和田 葉子(小説家)
辻 仁成(小説家、ミュージシャン、映画監督)
綿矢 りさ(小説家)
ヤマザキ マリ(漫画家)
吉増 剛造(詩人)
(※1) ^ 「苦難を乗り越える一冊を選ぶ」(週刊文春、2011年3月24日発売号)。この中で角田光代氏は池澤夏樹の『すばらしい新世界』『光の指で 触れよ』を選んだ。