福島で生きていく ——東日本大震災から一年の福島を訪ねて

被災地メディアの闘い。「東京、そして世界に伝えたいこと」Part 1

社会

東日本大震災発生から一年。原発事故による避難生活の多大な負担や、風評被害との闘いなどの重荷を負わされた福島県。目に見えぬ放射能と闘いながら、発信し続ける地元のジャーナリスト6人が、本音で語った。

福島民報社 早川正也・編集局報道部長
84年入社。社会部、遊軍、県政の各キャップ、報道デスクを経ていわき支社報道部長、編集局社会部長などを歴任、11年より現職。

福島民友新聞社 瀬戸栄治・編集局統括部長
83年入社。県北支社、浪江支局長、本社報道部、若松支社報道部長、編集局整理部長を経て、09年より現職。

福島テレビFTV 後藤義典・報道部長
88年入社。社会部記者、郡山支社報道部記者、県政記者、報道デスクなどを経て、09年より現職。

福島中央テレビFCT 村上雅信・福島報道部県政担当
00年入社。本社報道部、事業部、東京支社事業部を経て、08年より福島支社福島報道部。

福島放送KFB 早川源一・報道制作部長
84年入社。県政記者、社会部キャップ、報道デスクを経て、08年より現職。

テレビユー福島TUF 高野浩司・報道記者兼デスク
05年入社。報道制作局報道部、郡山支社報道部を経て、08年より報道制作局報道部。

司会 一般財団法人ニッポンドットコム代表理事 原野城治

福島では“絆”を実感できない。原発は福島だけの問題なのか

原野 地元の新聞社2社、テレビ局4社が一堂に会して語り合うのは、大震災後初めてと聞いています。それぞれお考えがあると思いますが、まず、現状で最も大きな課題は何だとお考えですか。

民報・早川 県内は津波被害を受けた沿岸部を除くと、ほぼ日常の生活を取り戻し、表面的には「3.11」以前に戻ったように見えます。ただ、実際の県民生活は、まったく以前と異なっています。原発事故は依然収束していませんし、各地に立ち並んだ仮設住宅などに避難を強いられている人たちは16万人に上ります。さらに避難区域以外の県民も低線量被ばくという得体のしれない環境の中で強いストレスを抱えており、お子さんを抱えた家族の県外避難も目立っています。生活空間の放射線量を下げるための除染が当面する最大の課題なんですが、一向に進まない。それが復旧復興の大きな足かせになっていると思います。

早川源一氏

KFB・早川 何が一番の課題かと考えてみても、思いつきません。カテゴリー的にいっぱいあるからです。その中で最初に感じたのは福島にレッテルが貼られているということ。私も系列の放送局に呼ばれて話をすることがあるのですが、「福島だけで片付けてほしい」という雰囲気を感じます。2011年を表す漢字に決まったのは「絆」でしたが、福島にいると、なかなか実感できない。絆でつながっていこうという割に、現実には福島の問題にしてしまって片付けようという雰囲気が、日が経つにしたがって増幅していくのを感じます。

県外の当事者意識が薄れている

FTV・後藤 今回の震災はあまりにも大きくて、当初はおそらく遠く離れていても日本国民のほぼ全員に当事者意識があったと思うのです。ところが1年が経過して、福島県以外の地域の皆さんの当事者意識というのは急速に下がり、福島だけが特殊な地域として見られ、どんどん浮いていくような焦りみたいなものを感じています。県外の人の前で話す機会があると、どこかはれものに触るような感覚を持たれていると感じることがあります。県外の人の当事者意識が薄れているということ。それが課題の一つかなと思っています。

高野浩司氏

TUF・高野 やっぱり一番は、モチベーションの変化であると思います。普段生活している中で、問題が多岐にわたり過ぎて、県民が不安になっている構図がある。また、周囲との協力的な関係ができてない感じがします。そういう意味で、外部との連携をもう少しうまくやる必要はあると思います。放射線問題など福島だけで抱えるのには限界を感じてしまう。やっぱり地元、県などが、どんどん発信し、一緒に友達を作る感覚で外部とやっていくことが必要だろうと個人的に感じています。

民友・瀬戸 県民生活のことを考えると、除染問題が一番の課題だと思います。何をするにも除染で、3.11以前の普通の状態に戻してほしいということです。住民の不安を精神的にも、物理的にも取り除くことを徹底しない限り、県外の方々からの福島への見方も変わらない。そこがスタートだと思います。

早川正也氏

民報・早川 低線量被ばくという、科学的な知見がないものをどう捉えるか。そこで皆悩んでしまっているわけです。放射線問題の怖いのは健康影響はもちろんですが、それ以前に人と人の絆や地域を引き裂いてしまうことにあります。除染後に出る汚染廃棄物をどうするのか。健康への影響が明確に分からない中、リスクを最大にとれば、「私の方に持ってこないで」「地元で処理してください」という話になるわけです。岩手、宮城両県の震災がれきの受け入れが進まないことなどをみると、こうした状況は県内から県外に広がっているように感じます。このままでは、福島県は孤立し、復旧・復興どころではありません。放射線問題を伝える場合、健康影響だけでなく、そうした社会的な側面も考えないといけない。1年間の報道を通して強く感じています。

「価値観を押し付けない」という暗黙のルールが生まれた

原野 除染の状況は実際どうなのでしょうか。

KFB・早川 バラバラです。本来、面として考えて取り組む必要があるのに、国がやらないから市がやって、市がやらないから行政区、行政区がやらないから、団地、隣近所、個人でやって虫食い状態になっています。面で除染をしないから線量は低くならない。

原野 政治に当事者能力がないということですか。

瀬戸栄治氏

民友・瀬戸 福島の危機イコール日本の危機としてとらえる状況なのに、政治家は何をやっているのだというような声が絶えません。復興庁など色々立ち上がってはいるのですが、東京・霞ヶ関の人たちの話を聞くと、関係省庁以外ではほとんどもう福島のことへの関心は薄れているようです。阪神淡路大震災の時がそうだったように、単に元通りにするのではなくて、ワンランク上のものを目指す復興を進めるために、中央関係者はこの福島を常に見続けてほしい。

TUF・高野 放射線が影響して、なかなか人が来てくれないという問題もあります。避難者が戻ってこなければ、さらに人が減っていく、という悪循環に入りつつあるような気がします。農産物の放射線量に関する基準をもう一段緩和することも、福島にとって必要だという意見もありますが、その基準をどこに設定するのかということに関しては、地元と全国の一般的な感覚のちょうどいいところを決めるのがなかなか難しい。

2010年産米も返品される風評被害の実態

後藤義典氏

FTV・後藤 僕が一番象徴的だと思ったのは、2010年産の米が返品されてきたことです。原発事故の前の米なのに返品された。無知ゆえの行動なのでしょうが、これが実態です。ただ、実際に健康被害を及ぼす可能性がある場合もあるわけだから、被害が出る部分をきちんと示して風評と区分けすることが、福島のあらゆる産業が生きていくために必要です。たとえば、農産物でいえば全量検査して、完全に白黒はっきり分ける。サンプリング調査では、網の目をかいくぐったものなのではという目で見られますから。

民報・早川 しかし、基準の設定は難しい。食品に含まれる放射性セシウムの新基準を決める際、厚生労働省は暫定基準値でも「安全」は確保されているとしながら、「安心」も確保するために基準を厳しくしたと説明しました。確かに消費者から見れば、厳しい方がいいかもしれません。ただ、生産者からすると、まだ、除染が進まない中で、基準を厳しくすれば、生産活動が成り立たなくなる恐れがあります。福島には生産者と消費者の両方がいます。首都圏の単純な消費者目線で基準設定がなされれば、社会から切り捨てられる人たちが出てくるわけです。

例えば、こんな話もあります。ある小学校でPTAの集まりがあり、お母さんの一人が「地産地消だからと給食で福島県の食材を使うのはやめてほしい」と言いました。すると、農業を営む家庭のお母さんは「基準値を下回っているのに、何で我々が作った作物がだめなのか」と反発し、言い争いになったそうです。

また、自主避難を巡っても、避難した人は、残った人に「逃げた」と言われ、逆に残った人は避難した人たちから「親の責任を果たしてない」などと言われるケースもあると耳にします。すごくしんどい話です。低線量被ばくの健康影響について白黒をはっきりさせて報道しろというお叱りも受けるのですが、科学的な知見がない中で、安易に安全か安全じゃないかの線引きはできません。この辺も、ものすごく気を遣って報道せざるを得ない部分です。

FTV・後藤 今、福島県民の中では「自分の価値観を押し付けない」というのが暗黙のルールになっていると思います。放射線にしても、県内の米を食うか食わないか、これは個人の価値観だし、自分はこうすると人に押し付けないっていうことです。それが僕らが生きていく上で大事なルールだと。

しかし、一方で県外の人たちに理解してもらうためのラインも必要です。大多数の人が信用し納得できる基準値を早く定めることです。そういうラインが定まらないと、いつまでたっても「検出値ゼロ」以外は認めないよというような変な話になってしまいます。

差別を心配する声、子供にも

村上雅信氏

FCT・村上 子供の間でも県外に行くと差別を受けるということが起こっています。女子高校生を取材すると、もう県外で結婚できないよねっていう子もいますし、将来妊娠できるのかっていう不安を抱えている女の子たちもたくさんいます。本当に何が正しいのか、その子たちは本当に妊娠できないのか、県外の人と結婚できないのかということは、しっかり地元メディアとして伝えていかないといけないと思います。

民報・早川 震災当初、困難にじっと耐える東北の人たちが称賛されました。しかし、マスコミ的には通常、声が大きい人や物事に対する意見をはっきり言う人の方が取り上げやすいですよね。そういう発言が間違っているとはいいませんが、全体を言い表しているかと言うと、少し違うと思います。震災直後、東京電力の社長に激しく怒りをぶつけている県民がいましたが、あのような場面はマスコミ的には絵になりやすいし、取り上げやすいわけです。しかし、あれが県民全体を象徴していると思われても困るわけです。

民友・瀬戸 たとえば自主避難した人が、避難先の報道で“福島からの避難者”として取材を受けて福島での不安を語るというようなことも多いです。県外メディアではそういう話が取り上げられるので、福島県全体がもう住めないような地域で、みんな防護服を着て歩いているように受け取られてしまうことも非常にたくさんあります。特に中央メディアの報道ではそういう傾向が強く見られます。

TUF・高野 自主避難者の方が県外で福島の現状を語り、それが危険であると強調されて報道されることが続いて、いま福島に住んでいる人がむなしく感じることがあると思います。全国放送のテレビで、ゴールデンタイムに特定の自主避難者が取り上げられ、福島県全体が危険であると強調するシーンが何度も繰り返されました。「福島にはもう戻れない、住めない」というフレーズが続き、それを見た県民から「今も住んでいる私たちは、これを見てもむなしくなるだけです」という声が多数寄せられました。根拠に基づかない危険性を誇張してしまうと、県民感情を害すこともあると思います。

県外メディアは決められたシナリオに沿って取材する

原野 1000年に一度の大震災や原発事故のようなことが起きた時、被災地の地元メディアの責任とは何だとお考えですか。

民報・早川 現状と課題を発信・記録し続けることだと思います。震災と原発事故から時間がたち、国は原発事故の「収束」を宣言し、在京メディアへの露出も減りました。何となく「もう終わりにしたい」という雰囲気を感じます。ただ、先程もお話ししましたが、県内は除染が進まず、震災直後と何も変わっていません。これで「終わり」にされたら、たまったものではありません。僕らは地元の報道機関として、まだまだ頑張っていかなければならないと思っています。

2012年3月11日付福島民報1面

2012年3月11日付福島民友1面

民友・瀬戸 震災直後はやはり、ライフラインがストップしてガソリンが入ってこない、物資の供給がストップした、水素爆発のような多重災害の中にあって、報道としてどうしたらいいかということを考えました。事実はやはり冷静に伝えなければいけないのですが、どうしてもメディアはセンセーショナルに伝えることを優先しがちです。結果的に反省する部分もあります。たとえば、事前に我々が「SPEEDI」(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)についてきちんと認識していたかといえば、知らなかった。知っていた人がどれくらいいたか、というと申し訳ないがほとんどいなかったと思います。現在でも、シーベルトとベクレルの違いは何だ? と読者から問われることが多い。全国の人たちに向けて放射線の知識を正しく分かりやすく伝えることができれば福島へ向く目も変わってくるのかな、と思っています。

一方で、東京から取材に来た大手メディアの人は、限られた取材時間の中で、今日はこういうテーマでとか、こういうシナリオで取材するというような方法を採っていると思います。一方で、我々地元メディアというのは常に担当の記者を地域に密着させ、人々の生活や地元の動きを日々見ています。そこから政治的にも左右されない、きちんとした目で取材を続けていくというやり方をしています。本当に地元の人たちが何を求めているのかを把握して震災を正しく伝えるのが、地方メディアの基本なのかなと思います。

内閣記者会は地元メディアと目線が異なった

民報・早川 立場の違いで言うと、例えば、東京の浄水場からセシウムが検出されたときだったと思いますが、社内で「明日から在京メディアの論調が変わるね」と話していたら、その通りになりました。それまでは、「ただちに健康に影響はない」というトーンだったのに、急に水や食品の安全についてシビアに書くようになった印象を受けました。中央と地元ではやはり目線が違うんだと実感しました。僕ら地元メディアの役割というのは、県内に踏みとどまっている198万人の福島県民の目線で物事を見て、考え、訴えていくことだと思っています。

FCT・村上 中央メディアとの視点の違いで言えば、2011年11月に福島第一原発が報道陣に初めて公開された時、私も現地取材に入って感じたことがあります。内閣記者会が主催の取材で、地元のメディアも一緒に入ったのですが、我々は何回も原発に入っているから爆発した前と後でどう違うのか、つまり県民目線でどんなことを感じるかというところを重視します。しかし、内閣記者会の所属記者たちは、予定調和的でした。すでにモニタリング結果が発表されているにも関わらず、線量の高さを初めて知ったみたいな感じで報道します。それがまた福島にとっての悪いイメージを増幅するものになってしまいました。外と地元の温度差の問題に関しては、地元からもっと積極的に海外とか世界に情報を発信していかなければいけないと最近私は思い始めています。その意味で、海外に地元の意識を発信する今回のような機会はとてもいいと思います。

原野 海外メディアとの違いを実感するようなこともありましたか。

センセーショナルに伝えたがる海外メディア

FCT・村上 振り返ってみると、3月12日の1号機の爆発と、3月14日の3号機の爆発の映像を捉えたのは世界で福島中央テレビだけでした。最初の爆発に気付いて放送して、キー局の日本テレビの報道の方にも、すぐ全国放送でやってくれと言いましたが、結局その爆発が何なのかという事を説明できないと放送できないという理由で見送られました。事実爆発している映像があるのに何でそれを放送しないのか。ようやく、それが全国放送で流れたことで今度は官邸が動き出して最終的に国が動き出したという側面もあるかもしれない。その時は中央との格差を感じただけでしたが、4月になって、海外との差を思い知らされました。

私たちが捉えた爆発の映像は、17キロ離れた場所での撮影で音はありません。しかし、You Tubeなどにアップされたドイツのテレビ局のニュース映像に爆発音が付けられていて、その加工された映像を日本で見た人が、「なんで音がついているの」「本当は音がついているのに、なんで福島中央テレビは音無しで流すのか」と大騒ぎになりました。爆発をセンセーショナルに伝えたいということで加工されたのでしょうが、どのソースが正しいのか、受け取る側が分からない状態だったことが混乱を招きました。

福島第一原発一号機の水素爆発画像(福島中央テレビ提供)

海外の人が福島で取材していくと、視点が我々とちょっとずれています。たとえば子供が鼻血を出したとか、のどが痛くなったとか下痢になったとかという話は、放射能の影響であるのかという科学的な根拠を確かめることなく流してしまう。海外でその報道を見た日本人から「海外ではこういう報道がされているけれど、どうして地元メディアはそれを報道しないのか」と抗議を受けます。地元メディアとしては、安全を強調したいのではなくて、ただ、ちゃんとした情報を伝えたいと思っているのですが。それなのに、海外・県外のメディアが無責任な報道をして、地元の我々が取材したものをめちゃくちゃにしていく。最終的に報道を受け取る県民も地元メディアを信用しなくなってしまいます。そういうかなりつらい状況がずっと続いているなという印象はあります。

【Part 2】へ続く

撮影=川本 聖哉

東日本大震災 福島 メディア 座談会