皇位継承で注目される「旧宮家」とは(前編):「もう一つの天皇家」の歴史をひもとく

皇室

男系男子による皇位継承の維持を選択した政府の有識者会議。「旧宮家の男系男子の皇族復帰」案が、皇族数の確保策として初めて明記されたことで、旧宮家が注目されている。かつて天皇家に跡継ぎがない時には宮家から天皇を出し、明治維新以降も、天皇の皇女(内親王)の嫁ぎ先になり、皇后の生家にもなった。戦後に11宮家51人が皇籍離脱して一般国民となったが、「もう一つの天皇家」とも言われる旧宮家の歴史を連載でたどる。

南北朝時代から600年以上続く伏見宮家

1964年秋の東京オリンピックの直前に、当時、東洋一の規模を誇る国際ホテルとして都心(千代田区紀尾井町)にオープンした「ホテルニューオータニ」。ここに旧宮家の「伏見宮(ふしみのみや)」家の広大な邸宅があった。約7ヘクタールで、東京ドームの面積の1.5倍にもなる。同ホテルの庭園にその名残りをとどめている。

旧宮家の中でも最も古く、宗家とされる伏見宮家は、南北朝時代の北朝3代崇光(すこう)天皇の第一皇子栄仁(よしひと)親王(1351-1416)を祖とし、600年以上続く。現在の当主は戦後の皇籍離脱を体験した第24代、伏見博明氏(90)。

伏見宮家は代々、天皇または上皇の養子あるいは猶子(ゆうし=実の親子でない二者が親子関係を結ぶ時の子)となる「親王宣下(せんげ=天皇の命令)」を受けて、特別に親王の地位が与えられ、宮家を世襲する「世襲親王家」となった。その後に同じような世襲親王家(桂宮=かつらのみや、有栖川宮=ありすがわのみや、閑院宮=かんいんのみや)が創設され、江戸時代には四親王家と呼ばれた。

天皇の継承者がいない時は宮家から新帝

その役目は、天皇家の血筋を絶やさないことで、もし天皇家に継承者がいない場合は世襲親王家から新帝が選ばれた。また、宮家に跡継ぎがいない時は、天皇の皇子を迎え入れて、お互いの存続を図ったのである。

室町時代中期の102代後花園天皇(在位1428-1464年)は伏見宮家の初代、栄仁親王の孫であり、同天皇の弟が伏見宮家を継いで4代目となった。また、伏見宮家17代は、江戸時代中期の116代桃園天皇の皇子で、天皇家と深いつながりがあったことが分かる。

江戸中期の学者で政治家でもあった新井白石は、皇統の断絶を心配して、徳川家の御三家のように、朝廷にも新たな宮家が必要と将軍(6代徳川家宣)に進言し、4番目の世襲親王家となる閑院宮家が1710年に創設された。家祖は113代東山天皇の皇子。

新井白石の進言が間もなく生きて、閑院宮家2代目の子、兼仁(ともひと)親王が119代光格(こうかく)天皇となった。先帝の遺児である当時1歳の内親王をお妃にする構想から、世襲親王家の中で9歳の天皇が選考された。光格天皇の在位は37年に及び、その皇統が今日の皇室に一直線でつながるので、光格天皇は「現皇室の祖」と呼ばれることもある。

伏見宮系皇族の隆盛を生んだ第20代、邦家親王

世襲親王家に生まれても、誰もが皇族になれたわけではなく、上記の親王宣下を受けた方が皇族となった。これは、親王が天皇の兄弟や子であるという原則を守るためで、血縁とは別の社会的な縁を作るためだった。宮家の子弟の多くは、格のある寺院の門跡(住職)となった。

江戸後期になると、伏見宮家第20代、邦家親王が50人は下らないという子宝に恵まれて、明治期以降に伏見宮系皇族が隆盛するきっかけを作る。勧修寺(かじゅうじ)、青蓮院、仁和寺、輪王寺、知恩院などの門跡宮となっていた息子たちが、王政復古の前後に次々と還俗(げんぞく=僧侶になった者が俗人に戻ること)して、伏見宮家に復籍してきたのである。明治維新の中心人物で公家出身の岩倉具視らが、朝廷と仏教を切り離すことや、新政府で皇族(宮様)の新たな活躍を期待したためという。

復帰した伏見宮家の息子たちは、寺院の名を捨て新しい宮号になった。山階宮(やましなのみや)、賀陽宮(かやのみや)、東伏見宮(ひがしふしみのみや)、華頂宮(かちょうのみや)、北白川宮(きたしらかわのみや)……。当初は本人限りの「一代宮」とされていた。

後継者がいなかった閑院宮家も、邦家親王の第16王子が還俗して継いだ。後に元帥陸軍大将となる閑院宮載仁(ことひと)親王である。

久邇宮家から昭和天皇の皇后

邦家親王の王子の中で特筆すべきは、第4王子の朝彦(あさひこ)親王だ。朝彦親王は幼少の頃に出家し、青蓮院門跡となったが、政治活動に加わって安政の大獄に連座し、蟄居(ちっきょ)の処分を受けた。その後、還俗して、中川宮、賀陽宮と宮号を変える一方、徳川慶喜(15代将軍)に接近して討幕派に敵対視される。王政復古の際には親王の位をはく奪され、幽閉された。明治3年、伏見宮家に復帰が許され、同8年に久邇宮(くにのみや)の宮号をもらい、新たな宮家が誕生する。

朝彦親王には18人の子(うち男子9人)がおり、久邇宮家のほかに梨本宮家を継ぎ、3つの宮家を創設した。朝彦親王の第3王子で久邇宮家を継いだ邦彦王の長女、良子(ながこ)女王が、大正13年(1924年)に皇太子(昭和天皇)と結婚。香淳皇后である。

朝彦親王の長男の邦憲王は健康上の問題で久邇宮家を弟に譲ったが、その後に健康を回復して結婚するに際し、父の元の宮号である賀陽宮家を創設した。

朝彦親王の第8王子の鳩彦(やすひこ)王は、朝香宮(あさかのみや)家を創設し、明治天皇の第8皇女、允子(のぶこ)内親王と結婚する。鳩彦王は子供たちに、「ある日、明治天皇に呼ばれて、『お前に富美宮(允子内親王)をやる』と言われた。うちは内親王と結婚するために作られた家だから、私一代で皇族は終わりでいいんだ」と話していたという。

朝彦親王の第9王子の稔彦(なるひこ)王も東久邇宮家を創立し、明治天皇の第9皇女、聡子(としこ)内親王と結婚した。後に首相となるが、後編に詳述する。

また、前述の伏見宮邦家親王の子が創立した北白川宮家と、同宮家2代の第1王子が創設した竹田宮家に、明治天皇の2人の内親王が嫁いでいる。

明治から男子皇族は軍人に

1889(明治22)年に発布された皇室典範(旧)で、一代皇族などの区別が廃止され、皇室の基盤を確立するため、天皇・皇族の子孫は永世にわたって皇族となる「永世皇族制」が採用された。伏見宮系の宮家は枝分れをして分家が増え、また四親王家の一つ、桂宮家が廃絶するなどして、明治の末には13の宮家を数えた。宮家が増えた理由には、病弱だった皇太子(後の大正天皇)の皇位継承問題を心配した明治天皇の判断もあったと言われる。

しかし、皇族の増加に伴い、皇室経済の問題が生じてきたので、皇族の範囲を天皇の血筋に近い者に限定するため、1920(大正9)年、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された。天皇家を除き、当時の皇族(宮家)は崇光天皇の16世孫の伏見宮邦家親王の子孫だったため、同準則をそのまま適用すると全員が皇籍離脱となる。そこで特例として、各宮家の長男の系統のみ、邦家親王から4世(玄孫=やしゃご、孫の孫)までは皇族とするが、それ以外の皇族は華族とする規定を定めた。これにより、十数人の皇族が終戦までに皇籍を離れた。

一方、明治から男子皇族には、陸海軍の軍人となることが義務付けられたので、大将ら多くの皇族軍人が生まれた。伏見宮家の22代貞愛(さだなる)親王が大正期の元帥陸軍大将、23代博恭(ひろやす)王は昭和期の元帥海軍大将で海軍の実力者だった。しかし、太平洋戦争が始まると、宮家の広大な邸宅は伏見宮家のように空襲で焼失するものも少なくなかった。

戦中期の1943年10月、昭和天皇の長女、照宮成子(しげこ)内親王が東久邇宮家に嫁いだ。同宮家は30年足らずの間に、2人の皇女を迎えることになった。

やがて敗戦と共に皇族の運命が大きく変わり、その大半が皇籍離脱の日を迎えることになる。

後編に続く

※参考図書名は、後編にまとめて掲載します。

バナー写真:国の重要文化財に指定されている旧久邇宮邸(聖心女子大学)=東京都渋谷区(PIXTA)

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