辛亥革命100年と日本

辛亥革命と日中関係

政治・外交

19世紀末から20世紀初頭、中国にとって日本は「近代知」の源泉であった。同時に、亡命者が集う「革命揺籃の地」でもあった。そして辛亥革命が発生。国際政治が揺れ動く中、日本はこの革命に複雑に、そして多様に関わっていく。

19世紀の日中関係

江戸時代の日本は対外貿易を管理下に置いていた。対外関係は長崎を通じた清とオランダの関係のほか、対馬を通じた朝鮮、薩摩藩を通じた琉球、そして清の福州との関係、さらに松前藩を通じたアイヌやツングース系の人びとを通じた清との関係があった。清は、朝貢にともなう周辺諸国との貿易のほか、18世紀に欧米諸国との貿易を広州一港に限定していたが、そのほか沿岸部の幾つかの港で互市と呼ばれる貿易をおこなっていた。日本と清は、台湾の鄭氏政権が滅んでからは、清の商人が長崎を訪れておこなっていた。多い時には数千の清の人びとが長崎に居住し、日本から銅や海産物などを輸入していた。日本も清から砂糖や奢侈品などの物資や文物を輸入した。

だが、この関係も19世紀半ばに変化する。中国がアヘン戦争などで敗北して沿岸部を開港し、1859年に日本も長崎などを開港すると、中国商人が長崎から神戸、横浜、函館など日本各地に進出し、海産物などを直接中国に持ち込むようになった。日本も、長崎奉行や函館奉行が中国人商人や欧米人を通さず、直接日本の商品を上海に持ち込むことを模索していた。高杉晋作の乗った千歳丸も、そのために派遣されたのであった。


明治頃の長崎港(写真提供=長崎歴史文化博物館)

明治維新後の1871年、日清修好条規が締結された。これは両国が最初に締結した平等条約であるが、条約交渉の過程、また内容の面から見ても、清に優位なものであった。明治維新はやがて成功物語として位置づけられるが、少なくとも西南戦争や松方財政のおこなわれている時代までは、清や朝鮮から日本の明治維新のような性急な改革は逆に混乱を生むと思われていた。そして、少なくとも1880年代後半の段階では、海軍力から見ても清のほうが日本よりも圧倒的に優勢であった。1886年に長崎で清の水兵が起こした長崎清国水兵事件に対する日本の外交姿勢にその劣位な立場が如実に反映されている。

日清戦争の結果、日本は台湾を領有するようになり、日本は清において列強と同様の条約特権を獲得した。そして、陸奥宗光外相がこの戦争を「近代=日本対伝統=清」との戦争と位置づけたように、国民の意識の中でも、清に対する優位を感じる向きが強まった。そして、清においても、明治維新型の近代国家建設を求める運動が起きたのであった。

「近代知」の源泉としての日本

明治日本が欧米から選択的に吸収した知識は、書籍や日本に来ていた留学生などを通じて中国にもたらされていた。西洋から直接に中国に流入した「近代知」もないわけではないが、日本経由のものが大きな影響力を持った。中国古典に起源を持ちながら、西洋言語の訳語として再登場した革命、社会、経済などといった単語は現在も中国で用いられている日本語起源の言葉である。ただ、留学生たちが「日本そのもの」から何を感じたのかは別問題である。中国の古典にしか現れないような単語を使う日本語にはノスタルジーしか感じず、生卵を食べ、風呂場で裸体を他人に見せる点などには異文化に対する忌避感を感じていたであろう。

日本陸軍第十三師団時代の蔣介石(写真提供:台湾国史館)

清朝は、20世紀初頭には立憲君主制度採用を決定したが、その制度を策定するに際して、天皇制のある日本を参考にした。1908年に発布した欽定憲法大綱でも、大日本帝国憲法を範として、皇帝の権限を定めていた。他方、共和制や社会主義思想などをはじめ、多くの政治に関わる考え方を留学生たちは日本で吸収したのであった。

日本からもたらされたものは、政治や思想だけではない。多くの軍事留学生が毎日数十人日本を訪れ、陸海軍で学んだ。辛亥革命を起こした側の新軍にも、また鎮圧する側の清の軍にも日本の陸軍士官学校出身者がいた。蔣介石も、辛亥革命勃発当時に新潟県高田の第十三師団におり、武昌蜂起の報に接して、急ぎ帰国して革命に身を投じたのであった。日本は近代国家としての、あるいは近代社会の「知」を中国に提供する役割を果たした。革命思想や改革をめぐる思想も、そこには含まれていた。

「革命揺籃の地」としての日本

19世紀末から20世紀初頭の日本は、清をはじめとするアジア各地からの亡命者が多く集っていた。中国でも、清の統治に抵抗したり、政争に敗れた人びとが租界や租借地などに逃げ込むことができたが、そこでは清が身柄の引き渡しを要請する可能性もあり、また刺客が放たれることもあったので、海を渡って日本などに潜伏したのであった。特に長崎は、上海の奥座敷としての機能を果たした。船便が便利であるだけでなく、海底電線が引かれ、中国情報が迅速に手に入ったからであった。また、亡命者たちは日本で組織による宣伝活動や、資金獲得運動を展開した。日本政府は、彼らの活動を監視し、膨大な記録を残しているが、それでも逮捕したり、身柄を拘束して清に引き渡したりすることは多くなかった。

宮崎滔天(写真提供=国立国会図書館)

孫文も例外ではなかった。蔣介石や周恩来らが日本留学経験者であるのに対して、孫文は日本留学生ではない。だが、孫文が世界的に一躍有名になった、ロンドンでの清の公使館に拠る孫の監禁事件について孫自身が英語で記したKidnapped in Londonの内容は、九州の玄洋社の機関紙である『九州日報』に「幽囚記」として宮崎滔天訳で連載され、孫の名が日本や東アジアで広がり始めた。また宮崎の自叙伝『三十三年之夢』とそれ中国語訳した章士釗の『孫逸仙』を通じて孫の名がいっそう東アジアに広まった。また1905年に中国同盟会を東京で組織し、『民報』などを通じて宣伝活動をおこなったように、日本を拠点にした活動、日本発の情報が、孫文の革命運動にとって重要であった。辛亥革命を経た1913年、国会に対する袁世凱の弾圧、とりわけ国民党の若きリーダーであった宋教仁の暗殺を受けて第二革命が発生し、結局袁に鎮圧されると、闘いに敗れた孫文は日本に亡命し、以後数年間日本で活動をおこなった。孫が宋慶齢と再婚するのは、この時期であった。中国から近く、物価が安いうえ、情報も豊富で、かつ華僑や留学生もいる日本は、中国の活動家にとって、格好の避難場所であったのである。

辛亥革命

このように中国政治のダイナミズムに日本は深く関わるようになっていたが、いわゆる辛亥革命にも日本は複雑に、多様に関わることになる。その辛亥革命を辞書的に整理すれば次のようになるであろう。1911年10月10日に湖北省の武昌(武漢の一部)で起きた軍隊の反乱を契機にして長江以南を中心とする各省が清朝からの独立を宣言し、その独立各省が連合して1912年1月に中華民国を建国した後、清朝との交渉を経て、2月に清の皇帝退位に至る過程、であると。


袁世凱(John Stuart Thomson, China Revolutionized [Indianapolis: Bobbs-Merrill Company, 1913]より)

これによって、二千年にわたって存在した王朝体制が瓦解し、制度的には共和制を採用する国家が中国に生まれた。だが、臨時大総統孫文に代わって大総統となった袁世凱は、共和制に一旦同意したものの、議会に強い権限をゆだねる臨時約法という中華民国の暫定憲法に相当する規定に反発した。そして、その議会で第一党となることを目指していた国民党の宋教仁を暗殺した。その結果、中国では再び袁世凱への反発が強まったものの、日本を含む列強は袁世凱を支持して借款を与え、また袁世凱の大総統就任を受けて中華民国政府を承認したのであった(アメリカ合衆国は議会の開設を以て承認を与えた)。

辛亥革命の原因はどこにあるかと問われれば、単純に孫文らの革命運動に帰することはできない。第一は、清の中央集権政策にともなう中央―地方間の緊張関係であった。とりわけ鉄道国有化をめぐって、敗戦により多額の賠償支払いを抱えていた清が外国に頼った鉄道敷設・経営をおこなおうとしたことが地方社会からの強い反発を招いていた。第二は、立憲君主国家への移行を目指していた清が、結局のところ満洲族の優位性の維持など、王朝の体制維持のために立憲君主制を志向していたことがあからさまになったことも重要だった。立憲君主国を主張していた人びとも、満洲族主導性があまりに強い立憲に反発した。このようにして清を滅ぼすという点において多くの勢力が結集していくことになった。そして第三に、清の転覆という革命を志向する勢力が、長江流域の地方エリートや軍人などに支持層を拡大し、実際に武昌での蜂起に結びつけたことも看過することはできない。

これらのように複合的な背景を持ちつつ、清という王朝の打倒という点でコンセンサスが形成されて、清は滅亡に追い込まれた。だが、清の版図は五族共和の名の下に維持され、清の皇帝も紫禁城にすみ続け、王族の地位も一定程度確保されるなど、清朝の体面は一定程度保たれたのであった。北京の朝廷、また袁世凱のコンテキストから見れば、これは清廷から袁世凱への「禅譲」としての意味を持つものでもあった。

辛亥革命に対する当時の評価

皇帝制度を否定する辛亥革命は、ちょうど大逆事件が起きたばかりの日本政府を刺激したことは想像に難くない。だが、民間においては賛否両論が巻き起こったのであった。辛亥革命直後に上海を訪れた与謝野鉄幹・晶子夫妻は、『巴里(パリ)より』にその時の様子を記している。そこで与謝野夫妻は、「一体今度の革命軍と云ふものは内外人の心が北京の政治に厭き果たと云ふ都合のよい機運に会したので意外の勢力となりつつある様であるが、実力を云へば西南戦争に於ける鹿児島の私学校の生徒の如き者が各地に騒ぎ立つて居るのに過ぎないと想はれる」と述べている。このような批判的な視線は、大隈重信にも通じる。大隈は『中央公論』(1911年11月号)で、「孫?つまらん、孫の批評なんど、それと我輩はもう革命派はいやだ。孫は無論大した人間じゃない」などと述べた。三宅雪嶺も同号で、「孫が英傑と為るか平凡視されて終るか、今後の経過次第で定まる」などとしている。孫がまだ海外にあって帰国していないということもあるが、日本の言論が孫支持だけではなかったことをうかがわせる。

梅屋庄吉・トク夫妻と孫文(小坂文乃氏所蔵)

日本では多くの活動家が孫文らによる革命を支援したことが知られている。宮崎兄弟、山田兄弟、萱野長知、頭山満、犬養毅、梅屋庄吉など、次から次へと名前が挙がる。孫文も『建国方略』において革命を支援した日本人を列挙している。これは、現在も「日中友好のシンボル」として語り継がれている。だが、留意が必要なのは、当時の日本政府は基本的に北京の清朝を支持し、財界の主流も経済活動の混乱を招く革命よりも、政治社会の漸進的な変容を望んでおり、革命そのものを支援するような状況になかったということである。ただ、重要なことは、当時の日本には政府や財界の主流の動向に関わりなく、自らの考えを持って中国に向き合い、元来は少数派であった革命派や改革を志向する集団に手を差し伸べた人びとが少なからずいたということである。そうした日中関係の多様性が重要であった。

その後、日本での孫文人気は次第に上がっていくが、それはむしろ袁世凱に叩かれる「悲劇の英雄」としての位置づけや、南京国民政府によって「革命の父」「国父」として讃えられたことが影響していよう。そして、日本が南京に樹立した汪精衛政権においても同様に孫文を「国父」として称揚し、戦後も同様に「革命史観(革命を重視する歴史観)」が流行する中で革命家としての孫文を肯定的に評価してきたことも日本の孫文観に影響を与えてきたのではないかと思われる。同時代的評価と、後の評価には多くの場合食い違いが見られるのである。

中国を繞る国際政治

実際、この中華民国の誕生は、中国と欧米、日本などとの関係を劇的に変えたわけではなかった。義和団事件の後、列強は基本的に1890年代後半の利権を相互承認し、清に借款を与えて保全しつつ、通商活動などを潤滑におこなおうとしていた。その点で列強は中国の混乱を望んでおらず、基本的に清を支持し、清から自立を宣言した諸省が南京に結集すると、彼らと清の間の和平調停をイギリスが斡旋した。また、イギリスをはじめ列強としては、中国を安定させられる“ストロングマン”を指導者として求めた。それにもっともふさわしいと思われたのは、ほかならぬ袁世凱であった。袁世凱は、当時の中国で最強といわれた北洋軍の首領でもあり、また清で近代国家化を推進した官僚層をバックにつけていた。列強は、この袁世凱に多額の借款を与えて支持を与えることになった。辛亥革命を利用して、列強と結んでいた不平等条約を一気に解決しようという考えを、孫文は持っていたようではある。だが、列強からの政府承認、また借款という支持を得ることを考えると、列強を敵にまわすことはできなかった。そのため、中華民国は清が列強と結んだ条約をそのまま継承したのである。袁世凱は、清の官僚を使いながら、西太后が好んだ中南海で政務をとった。辛亥革命のもたらした清朝皇帝退位は、中国史にとってきわめて大きな事件である。だが、それが政治や社会、経済を劇的に変化させたわけではない。「革命」の衝撃は、内政面でも、対外関係の面でも相当に抑制されていたのである。

継続する革命と日中対立

日本を含む列強が支持する袁世凱は、いったんは臨時約法にうたわれている共和制を支持したものの、大総統権限を抑制する強力な議会の成立には懸念を示し、第一党となった国民党の若きリーダーたる宋教仁を暗殺し、議会を統制下に置いた。これへの反発から起きたのが第二革命である。この時には、日本の中に反乱軍を支持する向きがあるとして袁派から日本への批判が強まり、南京では日本人が反乱を鎮圧する側の張勲の軍から暴行を受けるという南京事件が発生したほどであった。その後、袁世凱の議会への統制と、より権限の強い大総統への希求はやまず、自ら皇帝となることを画策した。これへの反発も強く第三革命が起きた。強い反対を受けた袁世凱は皇帝を唱えることをやめ、失意のうちに死亡した。

大隈重信(写真提供=国立国会図書館)

1912年から1916年まで続いた袁世凱政権期は日中関係にとっても大きな転機だった。日本政府は民間において革命支持の機運が見られたものの、政府も列強と同調して清朝政府や袁世凱政権を支えてきた。財界もそれに同調してきた。だが、1914年に第一次世界大戦が始まると、1915年に日本の大隈重信内閣は袁世凱に対して二十一カ条要求を発したのである。これは、列強との協調を半ば無視した行動であるだけでなく、中国側から強い反発を呼び起こすものともなった。日本が強引に要求受諾を袁世凱政権につきつけ、袁もやむを得ず受諾したことは、袁批判とともに、中国での日本批判を決定的なものとしたのであった。以後、日中間にさまざまな宥和路線が模索されるが、この二十一カ条要求は中国で列強の侵略の象徴と位置づけられ、日本は中国ナショナリズムの主要敵になっていったのであった。

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