銀座で昭和の記憶をとどめる奥野ビルと306号室を守る人々

暮らし 美術・アート

  • 昭和初期に建てられた当時最先端の高級アパート
  • 有名ギャラリーやアンティークショップなどがビルの雰囲気を生かしている
  • 部屋を保存することで昭和の魅力を伝える「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」

震災に耐えられる銀座屈指の高級アパート

京橋に程近い銀座1丁目に、レトロとモダンを感じさせる昭和初期のビルがある。その名は「奥野ビル」。最新のオフィスビルや商業施設が立ち並ぶ銀座界隈では、異彩を放つ存在だ。

重厚な外観の銀座奥野ビル
重厚な外観の銀座・奥野ビル

名を知られるギャラリーなどがテナントのため、美術好きなら名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。1階にはアンティークショップ、2階から6階は小さなギャラリーやショップ、個人の事務所などが数十軒入り、いずれも歴史ある建物の雰囲気を内装に生かしている。各階を結ぶエレベーターのドアは、まさかの手動式。最近は、ギャラリーやショップを巡りつつ、建物自体も楽しんでいる人が増えているようだ。なかには、外国人観光客の姿も見受けられる。

ビル入り口横の看板と、アンティークショップの丸窓
ビル入り口横の看板と、アンティークショップの丸窓

本館のエントランス。全70室ある
本館のエントランス。全70室ある

手動開閉式のエレベーター
手動開閉式のエレベーター

旧名「銀座アパートメント」だった奥野ビルは2つの建物が連結しており、向かって左側の本館は1932(昭和7)年に竣工し、新館と呼ばれる右側は1934年に完成した。現オーナーの奥野亜男さんの祖父であり、鉄道部品の製造で成功した治助さんが、この地に部品工場を建設したのが始まりだという。1923年の関東大震災で被災し、工場は大井町に移転。不動産として活用するために、震災にも耐えられるような鉄筋のビルを建てることにした。

設計を依頼したのは治助さんと交友があった川元良一氏。同潤会アパートで知られる同潤会の建築部長を務め、独立してからは九段会館などを手掛けた建築家だ。当時はまだ珍しかった鉄筋ビルで、住宅用エレベーターも備えたため、銀座屈指の高級アパートとなった。

人が通る部分が色あせた廊下は味わい深い
人が通る部分が色あせた廊下は味わい深い

エレベーターの階数表示器もモダンなデザイン
エレベーターの階数表示器もモダンなデザイン

ビルの雰囲気を生かした数々のギャラリーがあり、美術家にとっては銀座で作品を発表できる貴重な場所となっている
ビルの雰囲気を生かした数々のギャラリーがあり、美術家にとっては銀座で作品を発表できる貴重な場所となっている

最後の住人の部屋を保存

奥野ビルに興味を持った人は、一室で行われるユニークな保存活動を訪ねてみるといい。それは「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」だ。毎月6日を公開日として、部屋を一般に開放している。プロジェクトの会員が当番制で部屋に常駐し、訪れた人を案内してくれる。

「奥野ビルは、ただ古いだけの建物ではありません。昭和という時代の記憶をとどめる貴重な存在であり、ここにいた人々の歴史やつくり上げてきた文化も受け継いでいるのです」

そう話すのは、このプロジェクトを立ち上げた黑多弘文さん。大学卒業後に美術家となり、映像作品の制作などに携わってきた黑多さんは、奥野ビルに入居しているギャラリーと関わりがあった。

奥野ビル306号室の内観
奥野ビル306号室の内観

保存プロジェクトの発起人・黑多さん
保存プロジェクトの発起人・黑多さん

306号室の元の住人は、須田ヨシさん。1909年に秋田県角館で生まれ、美容師として激動の昭和を生き抜いた女性だ。おしゃれでもてて、ビールが好きだったという。奥野ビルの一室を美容室として、須田さんは馴染み客を中心にカットしていた。70年代後半に廃業し、美容室を改装して住居にしたという。

テナントビルとなった奥野ビルで最後の居住者となった須田さんは、2009年に100歳で亡くなった。黑多さんたちは306号室が修繕される前に借り受け、保存活動を開始した。現在は、部屋の雰囲気を活かしたインスタレーションや展示、上映会などを行っている。また、ビルの歴史を振り返ったドキュメンタリー映像『奥野ビル物語』の制作も進めているそうだ。

営業していた頃のスダ美容室の写真
営業していた頃のスダ美容室の写真

スダ美容室の時代を懐古し、306号室プロジェクトチームが制作した看板
スダ美容室の時代を懐古し、306号室プロジェクトチームが制作した看板

過去を振り返るきっかけに

306号室は8畳ほどのワンルームだが、内装にとても手が掛かっている。天井には柔らかなアールがつき、壁紙や床にも意匠を凝らしてある。窓の外には土のスペースが設けられ、草花を植えることができる。かつては、この窓から海が見えたという。306号室の壁には鏡が掛かり、電話台の小窓、ポスターや看板など、美容室の名残が感じられる。

奥野ビルは、共有スペースも充実していた。当時の最先端だった全館暖房を備え、地下には住人専用の共同浴場、屋上のペントハウスには洗濯室と談話室もあったという。このビルは、昭和初期の都市型ライフスタイルの象徴的存在だっただろう。

細部の造作にも手が掛けられている
細部の造作にも手が掛けられている

窓の外に草花が植えられる窓は、都会生活の癒しとなっただろう
窓の外に草花が植えられる窓は、都会生活の癒しとなっただろう

「奥野ビルには、美術監督の吉田謙吉など映画に携わる人々が入居していました。なにせ屈指の高級アパートでしたから、文化人が多く集まってきたことでしょう」と言うのは、同プロジェクトの西松典宏さん。テレビ局のプロデューサーとして美術番組を制作していた西松さんは、奥野ビルにあるギャラリーを訪れるうちに建物の魅力にとりつかれたという。

「日本はこれまで、古いものを壊して新しいものを作るスクラップアンドビルドを繰り返し、前へ前へと進んできました。その潮流を見直し、古いものへオマージュを捧げ、過去を振り返るというきっかけに、この306号室がなってくれたらいいと思っています」

資料を見ながら、丁寧に説明してくれた西松さん
資料を見ながら、丁寧に説明してくれた西松さん

時代を感じさせる消火栓
時代を感じさせる消火栓

廊下の窓や階段の手すりなどにも趣がある
廊下の窓や階段の手すりなどにも趣がある

イベントや撮影が目的で、「306号室を借りられないか」という問い合わせがプロジェクトに来ることもある。基本的には、会員の利用のみにしているという。

「部屋の保存が目的であり、商業目的には利用していません。ただし、部屋の存在意義が伝わる内容であれば、イベントなども開催するようにしています」と黑多さん。好評だったのは、美容室だった306号室を再現しようと、理容師を招いて開催するカットイベントだ。「昭和からずっと部屋にある鏡に、今を生きるお客さんの顔が映り、髪がカットされてはらはらと落ちていく様子は、とても趣がありました」と西松さんは言う。プロジェクトでは今後も、須田ヨシさんの半生を調べて記録し、ビルに関わった人々の証言なども集めたりしていくという。ちなみに、ビルの現オーナー・奥野さんもプロジェクトの趣旨に賛同し、会員として参加している。

ロンドンやパリなどに比べ、東京の都心部には歴史ある建物が残されていない。西松さんが言うスクラップアンドビルドに加え、戦災や地震大国ならではの耐震基準の度重なる改正なども要因である。銀座で昭和初期の建物を眺め、そこで実際に暮らした住人の記憶にも触れられる奥野ビルは大変貴重な一棟。ぜひ、ギャラリーやショップ、306号室のイベントなどを訪れ、往時の雰囲気をしのんでみてほしい。

取材・文=岡本 茉衣
写真=斎藤 ジン
(バナー写真=窓越しに見る奥野ビルの手動式のエレベーター)

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