『品川御殿やま』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第33回
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黒船来航で斜面を削られてしまった花見の名所
品川湊(みなと)を望む高台・御殿山の桜は、古くから江戸の庶民たちから愛されていたという。4代将軍・徳川家綱の時代に吉野の桜が移植され、桜の名所として知られるようになったようだ。広重は御殿山の桜をいくつか描いているが、ほとんどが山の上から桜越しに品川湊を望む、楽しげな花見の絵だ。しかし、名所江戸百景では、地層がむき出しの殺風景な崖の上に、満開の桜を小さく描いている。
1853(嘉永6)年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航。江戸湾に砲台を必要とした幕府は、品川台場の埋め立て工事を開始した。その際に、御殿山を土取場(土砂の採掘場)とし、斜面を切り崩したことで、この崖と手前の窪(くぼ)地が出現してしまったというわけだ。変わり果てた御殿山の姿を見た広重は嘆き、名所江戸百景ではあえて崖側の眺めを描いたとされている。
1872(明治5)年に品川から横浜まで鉄道を通す際、この窪地を利用し、さらに南北の山を削って線路を敷いたようだ。今でも御殿山には多くの桜が植えられているが、元絵のように桜と崖と窪地を同時に眺められる場所は少ない。JRの線路沿いは落下物防止のために高いフェンスが設置されているからだ。写真は、桜が満開の時季に新八山橋の東詰から御殿山方面を撮影したもの。広重が描いたのはもう少し南だと考えられるが、キリスト品川教会の十字架塔が中央の松の大木と印象が重なり、元絵の雰囲気が出せたので作品とした。
●関連情報
御殿山
15世紀半ば、江戸城を築城する前の太田道灌は、御殿山に城を築いて居住していたと伝わる。3代将軍・家光治世の寛永(1624-1644)年間に、御殿が建てられたことが「御殿山」という名の由来とされている。その御殿は1702(元禄15)年の大火で焼失し、再建はされなかった。桜は大火の後にも移植が続けられ、上野の寛永寺と並ぶ桜の名所になったという。
現在、「御殿山」という住所は存在していないが、明治から昭和まで東京南部の高級住宅地「城南五山」の一つに数えられていた歴史があるため、この地域の施設やマンションの名前などに使用されることが多い。JRの線路の西側は高級マンションが立ち並ぶ住宅街で、街路樹には今でもたくさんの桜が植えられている。
キリスト品川教会の隣にある複合施設「御殿山トラストシティ」内には「御殿山庭園」があり、一般の人の立ち入りも可能。台場土取場の地形をそのまま利用したことが想像できる高低差があり、滝や池も造られている。桜の木が植えられているので、江戸時代の御殿山の花見を想像しながら庭園散策を楽しめる。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら