ボンサイという名の少年
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近代のほとんどの時期において、日本と西洋の間の「言葉の貿易収支」は極めて不均衡だった。新しい語彙(ごい)とともに西洋の知識を取り入れることは日本の近代化の一部であり、19世紀後半以降、西洋の言語に由来するおびただしい数の外来語が日本語の中で重要な位置を占めてきた。その数の多さと広がりに比べたら、西洋に入ってきた日本語の数などたかが知れている。
それでも西洋にはない事物だという異国情緒から、キモノ、ゲイシャ、サムライ、ショーグンといった言葉は、日本の文物に関する西洋人による記述を通じて、明治維新のはるか以前からヨーロッパで知られていた。また多くの国々が日本の文化を「輸入」してもきた。例えば俳句は、ロシア語、タガログ語、チェコ語など、さまざまな言語に取り入れられ、詩歌の一形式として受け入れられている。最近で言うならタマゴッチ(日本での商品名「たまごっち」のまま世界中に広がったゲーム機)や、ウォークマン(英語からの造語を冠し、日本国内外で人気を博した携帯型カセットプレーヤー)などが挙げられよう。
この10年ほどはグローバル化の加速を背景に、さまざまなルートや方法で日本語が大量に「輸出」されている。その増加ぶりは顕著だ。日常的に使う言葉の中にひっそりと溶け込んでいるせいで、この変化に気付く人はそれほど多くないかもしれない。しかし日本語がどんな分野で使われているのかを検証することは価値があるし、なかなか面白い結果が得られるはずだ。ドイツ語の例を見てみよう。
スシの普及による影響
ドイツにおいて日本語が最も多く使われている分野といえば、なんといっても料理だろう。理由はいろいろあるが、1990年代後半にドイツをはじめ世界各国にすしが普及したことがその1つに挙げられる。ドイツ人はそれまで知らなかったさまざまな食材を知り、それらの名称が日本語のまま取り入れられた。サシミ、ワサビ、シソ、ワカメなどの言葉は、世代を問わず誰もが知っている。ブリ、ハマチ、ガリ、軍艦巻きなどを示すマキも同様だ。ユズ、ポンズ、ダシといった言葉も、その味とともに知られているし、ウマミの概念もまたしかり。京都や東京で修業を積んだドイツ人の著名な料理人たちは、ベントー(弁当)のコンセプトを使ったのコース料理や、マッチャ、アズキ、ゴマ、ワサビ風味のデザートなど、日本テイストを取り入れたオリジナルメニューを競って考案している。
そうした高級料理は一般の消費者には値が張りすぎるし、あまり魅力的ではないだろうが、そこで用いられる食材はほとんどが雑誌やメディアで取り上げられている。地元のスーパーに行けばテイクアウトのすしがウメ、カブキ、ブンラク(文楽)といった名前で売られ、今はやりのデリバリーのメニューにも日本語の名前が登場する。日本原産のシイタケ、エノキ、ミズナ(水菜)もすっかり定着した。つまりモノと言葉が一緒に入ってきたというわけだ。
同じパターンはスポーツ、ガーデニング、ゲーム、漫画などの分野でも見られる。ジュードーカ(柔道家)などの名称や、相撲の決まり手の1つであるウワテナゲ(上手投げ)に加え、モミジ、コイ(鯉)と言った言葉も、今ではドイツ人の語彙になっている。子どもたちは漫画やお気に入りのキャラクターから日本語を学び、中には日本人(のように見える人)を見かけたらコンニチハやダイスキと呼びかけてみる子もいるだろう。
製品名やブランド名、店名、さらには社名にも日本風の名前が付けられている。例えば飲食店ならアキコ(Akiko)、リョーリ(Ryorii)、ココロ(Cocolo)、クチ(Kuchi)、モシモシ(Moshimoshi)、ミヤビ(Miyabi)といった具合。アルファベット表記が正しくないものもあるが、そのまま引用した。おそらく、わざと違うスペルにして人目を引こうというマーケティング戦略なのだろう。ステキ(Suteki)という名の盆栽センター、オレンジ色の人工毛を使ったメーク用ブラシのカブキ(Kabukki)、ボンサイ(Bonsaii)という商品名のシュレッダー、ハイカー用のダウンの寝袋ブランドでヒバチ(Hibachi)というのもある。製品そのものと日本語の本来の意味は必ずしも関係はなく、音の響きの良さや発音のしやすさから選ばれており、その結果、日本語名の増殖に拍車がかかっている。言葉の出所は漫画やゲームなどだ。今や日本語や日本語風の言葉は、外国語としてではなく、ドイツ語の中に自然に溶け込みつつある。
面白いのは、日本語の名称や表現が、現代のグローバル化した消費社会の中で、単にそのまま使われているだけでないということだ。中には新しい言語環境の中で独自の進化を遂げた例もある。外国語が持つ新鮮さを生かして、言葉や表現がまったく新しい文脈で、しかも独創的な使い方で、日本語が使われるようになっているのだ。
日本語の新しい用法
ここまで取り上げたのは、いずれも日常生活のさまざまな場面で使われる言葉だったが、ドイツやその他のヨーロッパの国々では、それ以外の名詞も使われている。ツナミ、ハラキリ、ヒキコモリ(引きこもり)、カローシ(過労死)などがそうだ。これらの言葉は本来かなりネガティブな意味を持つが、ドイツではさまざまな用途に使用されている。例えばベルリンにはカローシ(Caroshi)という名前のバーがある。非常に逆説的なネーミングで、人目を引くことこの上ない。バーだけにとどまらず、同じベルリンにはカローシ(Karoshi)というメディア関連の代理店もある。おそらく皮肉の意味合いを込めた社名なのだろう。
こうした名詞の中でも最もよく知られているのは、間違いなくハラキリだろう。それだけで1つの記事を書けるくらい、ドイツでは長い歴史を持っている。1919年にはフリッツ・ラング監督がオペラ『蝶々夫人』からの翻案となる無声ドイツ映画『ハラキリ』を製作したが、これは19世紀以降のヨーロッパにおけるハラキリの歴史の一段階にすぎない。
現代のドイツにおいてハラキリは、世代を問わず「明らかな自殺行為」の意味で使われる。マスメディアや大人たちの会話の中では、政治的ハラキリや経済的ハラキリ、さらには社会的ハラキリなどが会話にでてくるし、子どもたちは学校でスポーツなどの話題の時にこの言葉を使う。あまりに気楽に、しかも頻繁に使われるので、すでにハラキリの持つドラマチックなニュアンスはほとんど失われている。例えば新聞記者は、チャンピオンズリーグで勝つことだけしか考えていないサッカーチームをハラキリと呼んだりするのだ。
一方、ツナミが普及したのは比較的最近のことだ。21世紀になって深刻な津波被害がたびたび報道されたことによって世界中で使われるようになった。ハラキリ同様に元の意味を離れ、今では「圧倒的な体験や出来事」を表す時に使われる。とりわけジャーナリストのお気に入りで、自国のサッカー選手が海外で成功を収めてドイツに凱旋(がいせん)帰国すれば「歓喜のツナミ」、インターネット上にさまざまな意見があふれると「意見のツナミ」、といった具合だ。
ドイツ人の語彙に新しく加わった言葉の中で最も便利な表現の1つがボンサイ(盆栽)だ。思ったよりちっぽけだったとか、適切と思われる規模より小さい、という場合に比喩的に使われる。ドイツのヤングアダルト小説『ボンサイ(Bonsai)』(1997年)に加え、英語、デンマーク語、スペイン語からドイツ語に翻訳された同名の3作品におけるボンサイは、まさにその意味だ。政治の世界では、ボンサイナショナリズム、ボンサイ野党、ボンサイデモ、ボンサイニュース(ツイッターを指す)などと、ボンサイが当たり前のように使われる。ドイツ軍はボンサイ軍とやゆされ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者サイモン・ラトルは2014年のニューイヤーズ・イブ・コンサートで指揮した小品をボンサイ傑作と呼んだ。さらに2006年にギムナジウム(大学進学を前提としたドイツの中等教育機関)での教育期間を9年間から8年間に短縮するという議論が起きた時、教員組合の委員長は新制度をボンサイ・ギムナジウムと表現した。小さく愛らしいボンサイは、散文、小説、ゾウ、店などを形容する際にも使われる。
反転する言葉の流れ
これらの例からは、日本の言葉がドイツで確実に受け入れられつつあることが分かる。以前は名前すら存在しなかった食品その他の事物を表す言葉としてのみならず、新鮮で異国情緒にあふれるしゃれた外来語として。興味深いのは、どの分野で日本語が多く使われ、いつドイツに入ってきたかだ。外来語としてそのまま使われている日本の言葉を集めた辞書(2008年刊行)に掲載されたのは500語ほどだが、この記事で取り上げた言葉は最近使われるようになったものがほとんどなので、この辞書には載っていない。例えば和食や日本料理に関する言葉の流入は比較的最近のことだが、これには日本政府主導の食品輸出キャンペーンの影響もあるだろう。逆にスポーツに関する表現はかなり古くからある。ただしスモウやケンドーの認知度が上がったのはマスメディアの影響だ。
日本語の単語や名称が受け入れられるようになってきたことで、日本語が「外来語としての英語」に対してちょっとした“戦い”を挑んでいるという点も、注目に値する。ドイツで外来語と言えば英語が圧倒的に多く、この状況は当面変わることはないだろう。日本と同じように、ドイツにおいても英語は権威ある言語だと思われているため、多くの英単語がそのままドイツ語の代わりに使われている。
ところが「津波」については、急速に世界中に広まったツナミ(tsunami)という日本語が、既存のドイツ語にあっさり取って代わった。この新しい傾向は、日本の「たこつぼ」に由来する医学用語、「たこつぼ型心筋症」についても当てはまる。たこつぼ型心筋症は心疾患の1つで、左心室の形がたこつぼに似た形になる病気である。ドイツでは従来、英語の「ブロークンハート(broken heart)症候群」という分かりやすい名称が使われてきた。そもそもドイツ人にとって、たこつぼという言葉は理解しづらい。たこつぼを使った漁法はドイツにないし、バルト海や北海の漁場にタコは生息していないからだ。だから普通のドイツ人は、たこつぼと言われてもまったくピンとこない。にもかかわらず最近は、ブロークンハート症候群よりも、たこつぼ型心筋症の方がよく使われる。
スイスのチューリヒ大学病院は最近、この病気の性別による特異性を研究するため、たこつぼ型心筋症データベース(ブロークンハート症候群データベースではなく)を立ち上げた。このことは、日本の医学研究が国際的に高い評価を得ているという事実のみならず、21世紀になってようやく、「西洋から世界へ」という、これまでは当然と思われてきた知識の流れの方向が変わり始めたことを示しているのかもしれない。
この流れの変化は捉えにくく、多くの人は気づいてさえいないかもしれない。2016年に著名な社会科学者が『The Darkness at the Foot of the Lighthouse(灯台下暗し)』と題した書籍を出版したが、ほとんどの読者は、序文を読まなければタイトルが日本のことわざに由来するとは気づかなかったはずだ。
最後にもう1つだけ、別の例を挙げておこう。ドイツのある大手新聞社が「翻訳不可能な外国の言葉」を意味する表現を読者から募ったところ、1人の読者がツンドク(積ん読)を提案し、本を買って読まずに山積みにしてあるという意味だと説明した。以来、ツンドクは典型的な「現代病」を意味する言葉として、印刷媒体やインターネットなどでしばしば使われるようになった。ようやくドイツ人も、この「病」を表すにふさわしい表現を手にしたのだ!
(原文=英語、2016年5月6日掲載。バナー写真:オーストリアのスキーリゾート、マイヤーホーフェンにある、世界一勾配がきついと言われるコース「ハラキリ」(写真提供=Deirdren)