終わらぬ冷戦、終わらぬ蒋介石

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『コードネームは孫中山』(原題は『行動代號:孫中山』)という映画が2014年に台湾で上映され、ちょっとしたヒットになった。映画の評判もよく、2015年は大阪アジアン映画祭に招待され、グランプリも獲得した。年内には日本で公開されるとも聞く。私も観ているが、大変いい出来の映画だった。少年たちが、孫文(孫中山)の銅像を学校の倉庫から盗み出し、売り飛ばして一儲けを企むという、政治風刺もはらんだコメディ映画なのだが、台湾における政治家の銅像は、権威主義時代という「歴史の記憶」を体現する重要かつ敏感な存在でもあることをうかがわせる内容になっている。

権威主義時代の象徴だった孫文と蒋介石像

国民党は1949年の台湾撤退後、台湾における脱日本化と中国化、および国民党一党専制統治の強化の手段として、孫文と蒋介石(蒋中正)の銅像をとにかく作りまくった。台湾全土に一体どれほど銅像が建てられたのか正確な統計はないが、ほとんどの学校や公共施設、ロータリーなどに両人いずれかの銅像が設けられた。銅像の孫文や蒋介石に睨まれながら学校に通った記憶は、ある年代以上の台湾人にとって共同記憶だと言ってもいい。

『コードネームは孫中山』について、孫文は台湾でほぼ非政治化された存在なので、この映画の製作が可能だったのだとふと気がついた。これが仮に『コードネームは蒋中正』であったら、きっとあまたの賛否両論があふれ、台湾社会の亀裂の裂け目からいろいろな感情が吹き出したに違いない。

蒋介石の銅像も民主化後は次第に各地から撤去され、台湾北部・桃園にある「慈湖紀念彫像公園」という、撤去された蒋介石像を大量に集めた銅像テーマパークまである。ここは一見の価値があるのでご関心のある方は足を運んでみて欲しい。とにかく、凄まじい種類と数の銅像がそろっている。

蒋介石の銅像は数こそ大きく減ったが、いまも台北市のランドマークである中正紀念堂には鎮座している。ここの銅像も含めて、各地に残る蒋介石像には毎年のようにペンキがかけられたり落書きされたりする。蒋介石は、二二八事件や白色テロなどで家族が被害に遭った人々にとっては、いまも憎悪の対象となっているのである。

白団を研究することは蒋介石を研究すること

一方で、必ずしも今日の台湾で蒋介石を全否定できないのは、蒋介石が台湾に撤退して、大陸反攻の拠点としたために、結果的にではあるが台湾は中国共産党による共産化を免れ、東西冷戦下で米国の庇護に入り、経済成長の基盤を固めることができたという経緯があることも関係しているだろう。

蒋介石についての歴史的な定位置は台湾でも定まっておらず、「蓋棺録は未だ書かれていない」と言うこともできる。だからこそ、蒋介石という人物については、まだまだ議論される余地が残っているのである。

筆者は、蒋介石と旧日本軍人の関係に焦点を当てた『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社)という本を2014年に日本で上梓した。この本は、「白団」と呼ばれた約80人の旧日本陸軍の参謀たちを中心とした軍事顧問団が戦後、非合法の形で台湾に渡り、蒋介石の大陸反攻計画の立案、国軍再建のための軍事教育、日本の戦時を参考にした国民総動員体制の確立などに参画し、1969年までの20年にわたって活動した歴史をノンフィクションとして掘り下げたものだ。

1948年、メンバーらが署名した白団結成時の「盟約署」(提供:野嶋 剛)

この白団の歴史は、かつて一部の当事者たちの回顧録的な書籍や文集は出されていたが、史料の裏付けや第三者による聞き取りなどの客観化作業を経た刊行物はきわめて少なかった。筆者は蒋介石日記、国防大学史料、国史館史料、当事者たちの未公開の日記やメモ、生存者へのインタビューなどの作業を重ね、蒋介石の内面、軍人たちの動機、時代背景、日本と中国の戦前の人的交流を分析しつつ、蒋介石が敵として戦った日本人を大陸放棄という窮地に追い込まれるなかでなぜあえて頼ったのか、立体的に描き出そうと試みている。

2015年に台湾でも繁体字版が出版され、現在まで1万部近くを売り上げている。日本での販売部数のおよそ2倍の数字で、蒋介石に対する台湾社会の関心の強さを実感すると同時に、私のような中国・台湾の近現代史と現代政治をからめたノンフィクションを書く者にとっては、日本語で執筆した著書や論文を積極的に多言語化(繁体字、簡体字)することでより幅広い読者にアクセスできることが証明される形となった。中国でも、かなりハードルが高いと思われていた当局の事前審査にもメドがたち、2016年夏ごろには簡体字版が出版される見通しとなっている。

また、台湾の著名映画人である李崗(アン・リー監督の弟)プロデューサーの指揮の下、本書を下敷きにしたドキュメンタリー映画の撮影が昨年末より進んでいる。私自身も製作顧問として関わっており、執筆のときに使った資料の段ボールを引っ張り出して、すっかり忘れていた資料の在処を探す作業で四苦八苦しているところだ(やはり資料は捨ててはいけない)。映画の完成は2017年になるというが、李崗氏は製作の狙いについて「蒋介石を単純な善悪論ではなく歴史の文脈から位置づけることは、台湾ではまだまだ未開拓の余地がある。日本と蒋介石の関係はその一つだ」と語っていた。

白団唯一の生き残り、瀧山氏(中央)に対するドキュメンタリー撮影チームの取材風景(提供:野嶋 剛)

「一つの中国」は「蒋介石を捨てるな」に等しい

蒋介石という人物が今日でも重要なのは、特に、蒋介石が当時の敵対相手である毛沢東と一緒に作り上げた「一つの中国という前提での両岸分断」という構図から今日の台湾も中国も脱しきっていないことが大きいと思える。

台湾は、この20年間で、蒋介石が国家機構ごと台湾に持ち込んだ「中華民国」の国名と憲法と政治体制を抱え込んだまま民主化を実現した。6度の直接総統選で3度の政権交代を平和裏に成し遂げた事実は尊敬に値するものだ。もし脱・中華民国体制が実現すれば、民主化と台湾化という両輪がそろうのだが、台湾の場合は先に民主化が進行しながら、台湾化はアイデンティティなど心理面ではかなりの程度成し遂げられたが、体制上はまだ未完成なところに特色がある。

いま中国は台湾に対し、「一つの中国」という枠組みにとどまることを事実上強要している状況下にあるが、これは中国が台湾に「蒋介石を捨ててはいけない」と呼びかけているに等しいとも言える。かつては「蒋匪」と呼んだ時代を思えば、天変地異のような変わりようである。中国では蒋介石研究が徐々にタブーではなくなり、書店では毛沢東関係の書籍よりも蒋介石の書籍のほうをたくさん見かけるほど蒋介石は根強い人気を誇っている。当然、「蒋介石はなぜ失敗したか」という歴史観の本は多いが、それでも、蒋介石日記などの一時史料からしっかりと蒋介石の人物像や行動原理を探求する作業が行われていることは、中国社会の蒋介石理解にとって、プラスになりこそすれ、マイナスにはならない。

白団が生活した台湾・北投温泉の旧宿舎(提供:野嶋 剛)

いまだ東アジアにさまよえる蒋介石の亡霊

馬英九総統は、1月28日、南シナ海の南沙諸島(スプラトリー諸島)の太平島を訪問した。台湾がいま太平島や東沙諸島を実効支配しているのは、1945年の日本の敗戦後、中華民国として南シナ海の「接収」に蒋介石が乗り出したからであり、1947年に中華民国が決めた「11段線(中国では9段線)」は、いまも中華人民共和国の南シナ海の島嶼領有の法的論拠となっている。米国や日本、中国、台湾も蒋介石の掌の上で踊っているといえば言い過ぎかもしれないが、アジアの今日になお蒋介石が大きな影響を及ぼし続けているのか、より深く認識されるべきだろう。

台湾の国防大学倉庫にいまなお保管されている白団が残したし資料群(提供:野嶋 剛)

昨年、スタンフォード大学フーバー研究所の研究員である林孝庭が著した『台海・冷戦・蒋介石:解密檔案中消失的台湾史 1958-1988』という本が話題になった。林孝庭は、本書で白団についてもかなりのスペースを割いて取り上げている。林考庭は本書のなかで、冷戦における蒋介石の果たした役割は過小評価されてきており、当時東アジアにおける米国の最も重要な同盟相手であった台湾を率いた蒋介石が、どのように米国の東アジア政策全般に影響を及ぼしたのか、さらに詳しい検討が必要だという論点を強調している。

蒋介石の亡霊は、東アジアの冷戦構造や中台分断という現実が消えない限り、この地域を今後もさまよい続けるに違いない。それは、蒋介石がこれからもなお語られるべきだということを意味している。

(2016年2月5日 記)

タイトル写真:白団メンバーらの記念撮影(提供:野嶋 剛)

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