今も抱かれる望郷の念——湾生と台湾
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台湾の日本統治時代と「日本語世代」
1895(明治28)年から終戦まで、台湾は日本の統治下に置かれていた。日清戦争後の下関条約で割譲が決まり、台湾および澎湖地区は大日本帝国の一部として統治されることとなった。その後の半世紀、統治機関として設けられた台湾総督府は各種産業インフラを整備し、統治の体制を整えていった。
その後、人々の勤勉な気質に支えられ、台湾は飛躍的な発展を遂げていく。そして、敗戦で日本人が台湾を去った後も、日本が手がけた「遺産」は台湾社会を支え続け、現在に至っている。
現在、台湾には日本統治時代に生を受け、幼少・青年時代を過ごしたお年寄りたちがいる。彼らは日本語を常用することから「日本語世代」と呼ばれている。高齢化に伴ってその数は減っているものの、社会の中でしっかりと一角を占めている。自由な社会となった今、日本語を駆使して自らの思いを発信している人は少なくない。
「湾生」とはどのような人々か
敗戦によって日本は台湾の領有権を放棄し、台湾は日本の統治から解き放たれた。続いて統治者となった中華民国政府は日本人が台湾にとどまることを嫌ったため、1949(昭和24)年8月までにほぼ全員が台湾を離れた。こうして日本本土へ引き揚げた人々を「湾生(わんせい)」という。
日本統治時代の半世紀、多くの日本人が台湾へ渡り、暮らしていた。当時、台湾の住民は漢人系の人々が「本島人」、原住民族(先住民)が「蕃人」(のちに「高砂族」という改称が普及)と呼ばれ、本土出身者とその子弟は「内地人」を名乗っていた。
湾生を定義付けるとすれば、「終戦後に日本本土へ引き揚げた内地人」となる。しかし、厳密にはいくつかの例外を含む。終戦時、内地人は「軍民合わせて50万」と言われたが、戦地任務で台湾へやってきた軍の従事者は湾生に含まないし、戦前に日本へ渡り、戦後に帰化した台湾人も湾生とは言わない。
一方で、台湾生まれでなくても、台湾で終戦を迎えて引き揚げた人は湾生に含む。そして、台湾生まれだが、進学などの理由で本土へ渡り、終戦後に台湾へ戻らなかった人も湾生に含まれる。
台湾に留まるか、日本に戻るか
1945(昭和20)年10月、米軍の管理下に入った台湾総督府は戸籍調査を実施している。これによると、内地人の総人口は38万4847名(軍人は含まず)で、男性20万26名、女性18万4821名となっている。戸数は10万6201戸だった。
興味深いのは「今後、内地(本土)へ帰りたいか」、「台湾に留まりたいか」というアンケートが実施されたことだ。乳幼児を除く32万3269名が対象となっている。
結果は日本本土に戻りたいと答えた者が18万2260名、台湾に留まりたいと答えたものが14万1009名となっている。回答者は男性が15万4749名、女性が16万8520名で女性のほうが多い。このうち男性は6万7654名が台湾に留まることを希望している。
言うまでもなく、当時は情報がなく、敗戦後の日本がどうなっていくのか、そして、台湾がどのような道を歩むのかを予測するすべはない。自らを取り巻く境遇がどのように変化していくのか、誰一人として想像ができない状況だった。
同時に、故郷を棄てて台湾にやってきた人や、台湾の地で生まれ育ち、本土とは縁を持たない内地人も少なくはなかった。こういった人々が抱いた不安の大きさは想像に難くない。この調査を受けた人々は例外なく複雑な思いだったに違いない。
湾生の人々が語る台湾
筆者はこういった湾生の人々の聞き取り調査を続けている。湾生の居住地は東京や関西以外に、九州をはじめとする西日本に多いのが特色とされるが、基本的には日本全国に散らばっている。
個人的な印象としては、湾生はどの地においても大学進学率が高く、各界で活躍してきた人が多いように思える。その理由として、台湾における教育水準が高かったことが挙げられる。日本統治下の台湾では内地人と本島人の間に教育差別があり、長らく内地人は尋常小学校、本島人は公学校と、初等教育機関が分かれていた。当然ながら優遇措置も多く、旧制中学以上への進学についても、明らかに内地人が有利だった。
また、公務員には外地手当(「六割加奉」と言われた)があり、本島人との給与格差は大きかった。もちろん例外はあったが、裕福な家庭が多かったのは事実で、子供たちものびのびとした環境で教育を受けていた。
一方で、異なった意見も聞く。それは、引き揚げ後、拠点らしい拠点を持たない湾生は誰もがつらい立場に置かれ、努力なくしては生きていくことができなかったという現実である。引き揚げで初めて日本の地を踏んだ人はどの土地においても多く、不慣れな土地で暮らし、繋がりも持たない湾生には数々の困難が付きまとっていたのである。
その結果、湾生同士で励まし合うことが多くなり、徐々にネットワークが形成されていった。特に地方都市においてはよそ者扱いをされることが多く、悔しい思いをしたと語る湾生は少なくない。湾生の出世はそういった状況に耐え、発奮した結果だったのだ。そして、そんな彼らを常に支えていたのが美しき故郷、台湾だったのである。
戦後70年を迎えて——湾生たちの今
台湾では1990年代後半から李登輝総統によって民主化が進められ、この頃から郷土の文化や歴史に対しての関心が高まった。日本統治時代についても冷静で客観的な判断の下、台湾に果たした貢献を積極的に評価する動きがある。これに連動して湾生に対する関心も高くなってきた。
福岡県在住で台南市出身の今林敏治氏は幼少期を過ごした台南の思い出をまとめ、『鳳凰木の花散りぬ』を刊行。貴重な証言の数々は台南の郷土史研究家たちから熱いまなざしを向けられている。また、多摩市在住で台北市出身の徳丸薩郎氏は日本統治時代の住宅地図を10年あまりの歳月をかけて作成した。湾生のネットワークを駆使し、情報を集めてはそれを手書きで地図に書き込んでいく。まさに気の遠くなるような作業だが、これは当時の台北市の姿を知る上で、第一級の史料と言えるものである。
また、当サイトでも登場した岡部茂氏(群馬県在住・台北市出身)は台北市建成小学校の同窓会「建成会」の運営に心血を注ぎ、同会は現在も旺盛な活動を続けている。こういった同窓会資料の中にも貴重な証言が潜んでいるのは言うまでもあるまい。
そのほか、故人ではあるが、天理大学名誉教授だった蜂矢宣朗氏は自らの思い出をまとめ、『湾生の記』を自費出版しており、台中出身の篠原正巳氏も『台中日本統治時代の記録』や『芝山巌事件の真相』を著し、いずれも台湾史研究で欠かせない存在となっている。台湾東部に関しても故・山口政治著『知られざる東台湾~湾生が綴るもう一つの台湾史』という500ページを超える大著がある。
いずれも、台湾への想いがにじみ出ており、湾生が台湾に抱く気持ちがいかなるものかが伝わってくる。
現在も紡がれている日台の絆
現在、国内においては台湾からの引揚者を中心に組織された一般財団法人台湾協会がある。ここは引揚者の親睦を図ることを目的とし、文献の収集、日台交流の促進など幅広い活動を続けている。各種資料の閲覧なども可能だ。
終戦から70年、今年は各地で数多くの戦没者や罹災者の慰霊が行なわれた。台湾協会の根井冽(ねい・きよし)理事長はこういった式典やイベントへの協力も積極的に行ない、告知にも力を入れている。
湾生に等しく言えることは、台湾を想う熱い気持ちの強さである。過去のみならず、現在、そして未来についても、日本と同じか、時にはそれ以上に台湾を愛し、その将来を案じている。『植民地台湾の日本女性生活史』の著者である竹中信子女史(東京都在住・台北州蘇澳出身)は以下のように語っていた。
「私たち湾生にとっての台湾はかけがえのない故郷。敗戦で切り離されてしまいましたが、台湾を想う気持ちは全く色あせていません」
現在、日台の人的交流は年々盛んになっており、相互の往来は500万人に達しそうな勢いである。また、今年は台湾を訪れる日本の修学旅行生も3万人に達する見込みだという。台湾を旅した人々が現地で受けた親切に感動し、台湾ファンになることは珍しくはない。台湾には湾生をはじめとする先人が残してきたものが数多く残り、現地の人々がそれを大切なものとして守ってくれている。その様子を目の当たりにすると、誰もが感動を禁じ得ない。
10月16日には台湾人によって製作された湾生についてのドキュメンタリー映画『湾生回家(邦題・湾生帰郷物語)』が公開される。戦後生まれの台湾人が日本統治時代の半世紀、そして湾生について、どのような見方をしているのか、興味が尽きないところである。台湾と日本の結びつきについて、もう一度、深く考えてみたいところである。
(2015年10月5日 記)
タイトル写真:台北市建成小学校の卒業生で組織された建成会の会報(撮影:片倉佳史)