蝦夷錦の道「北のシルクロード」——間宮林蔵が見たもの
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豪華絢爛な絹織物をもたらした北の交易路
江戸時代、大陸を流れる大河アムール川(中国名・黒龍江)を経て、中国・南京から北海道に至る全長約5千キロにおよぶ壮大な交易路があった。「蝦夷錦(えぞにしき)」と呼ばれた中国の豪華な絹織物などを日本にもたらした「北のシルクロード」。日本人や中国人、幾多の先住民族が支えた、はるかなる北の交易路の残映を求めて、ロシア極東各地を歩いた。
この交易は日本で「山丹(さんたん)交易」と呼ばれた。山丹とは現在のウリチやニブヒなど流域の諸民族を指す。代表的な交易品が、黄色や紺色の絹地に金糸や銀糸で竜などの紋様を刺しゅうした「蝦夷錦」。江戸時代に蝦夷地(北海道)から渡って来た豪華な錦は、人々の北方へのロマンをかき立て、ブランド品として広く流通、僧侶のけさやふくさなどに使われた。現在でも京都・祇園祭のシンボルである山鉾の飾りとして250年前の蝦夷錦が使われている。逆にサハリンや北海道からは、中国の貴族が求めたクロテンやキツネなどの毛皮が運ばれた。
間宮林蔵が大陸に残した足跡
ユーラシア大陸とサハリンを隔てる間宮海峡へ向かった。江戸時代の1808年から翌年にかけて、探検家間宮林蔵(1780―1844年)は現地を踏査し、海峡の存在を発見。ドイツ人医師シーボルトが「間宮の瀬戸(海峡)」として紹介したことで世界に知られた。日本から現地へ行くには、ロシア極東の中心地ハバロフスク経由で同川河口の町ニコラエフスクナアムーレへ。そこからは未舗装道路をまる1日走る。最短でも3日掛かり。現在、ロシアでは帝政ロシア海軍の軍人の名にちなみ「ネベリスコイ海峡」と呼ばれている。
海峡を臨む大陸側の村ラザレフにそびえる「いす」と呼ばれる標高約130メートルの岩山に登った。頂上からは朝日に輝く海峡と、わずか7.4キロ先のサハリンが見渡せた。海峡は1月から3月は結氷し、スノーモービルで行き来できる。205年前の1809年8月、林蔵はサハリンからアムール川へ向かう交易隊に加わり、濃霧と激しい潮流と闘いながらようやく渡った。
海峡から南へ約80キロ、大陸側の沿岸にタバ湾と呼ばれる小さな湾がある。ここがアムール川との最短地点に当たる。林蔵が旅した2世紀前は「ムシボー」と呼ばれ、先住民の主要な交易ルートになっていた。林蔵も同湾に上陸し、大陸探検の第一歩をしるした。
驚いたことに、同湾には明らかに古い道が丘の上の小川まで延びていた。道の長さは約120メートル、幅は5~8メートルほど。土の道は固く踏みしめられていた。林蔵は浜から丘の上まで舟を引き揚げ、タバ峠を越えて、キジ湖を横断してアムール川へ出たと記録している。道の位置、その様子は林蔵の記述通りだった。先住民と力を合わせて舟を引き揚げる林蔵の姿が目に浮かんだ。
林蔵が記した幻の交易地“デレン”
当時、アムール川の中流域には夏に中国・清朝の出先機関が設けられ、交易の場となっていた。その名は「デレン」。中国によってロシア人は排除されて、周辺にはいなかった。
清朝の役人は、諸民族からクロテンなどの毛皮を貢がせる代わりに、一定の地位と絹織物や木綿、針などを褒美として与えた。特に絹織物は日本で珍重され、交易品として流通し、江戸や京都にもたらされた。
林蔵の記録によると、デレンは一辺25メートルほどの四角の敷地を二重の柵で囲い、中に清朝役人が毛皮を徴収する小屋があった。それを取り巻くように常時500人もの諸民族が集い、仮小屋に泊まりながら毛皮や食料などの物品を交換し、大いににぎわっていた。
デレンはその後歴史上から消えて、「幻の交易地」とされていた。ところが、国立民族学博物館(大阪府吹田市)の佐々木史郎教授の調査によって有力な候補地が浮上した。中流域の工業都市コムソモリスクナアムーレから約120キロ東のノボイリノフカ。アムール川右岸の漁村だ。中州には「デレン島」と呼ばれる島があり、地形も林蔵の地図とぴたり一致。周辺からは中国製の磁器の破片も見つかっていた。
語り継がれていた北のシルクロードの歴史
ノボイリノフカを訪ねた。住民は約40世帯110人。村人は漁業で生計を立てている。雨雲の下、川幅約2キロの広々としたアムール川が目前をゆったりと流れる。川岸には厚く泥が堆積していた。岸辺に立って、林蔵の写生図と見比べると、対岸の山並みの輪郭は非常によく似ていた。
その様子を興味深そうに見つめている男性がいた。近隣の村に住むナナイのワレリー・ラドさん(63)。ラドさんは交易地について知っていた。35年前に死んだ父親から聞いたという。大伯父がラドさんの父に語り継いでいた。
「昔、この近くに大きな交易地があった。名前は聞いてないが、夏に遠くからも多くの人が集まり、クロテンやキツネ、アナグマなどの毛皮と、米や茶、塩、たばこ、ソバなどと交換していた」
ラドさんは「その交易地が『デレン』という名前ならば、それはウリチ語で『机』という意味だ」と教えてくれた。
北海道最北端の宗谷岬から北に約800キロ。悠々と流れるアムール川のほとり。やはり、この地に林蔵が訪れたデレンがあったのか。風が渡る川面の向こうから人々の喧噪(けんそう)が聞こえるような気がした。
アイヌの血を引く人々。鮮やかな蝦夷錦
北方交易を物語る蝦夷錦などの品々は、流域各地に数多くあった。
ウリチやナナイら先住民が多く暮らす下流域のブラバ村の博物館には、青色の絹地に竜を刺しゅうした古い蝦夷錦の布が展示され、祭事に使われたとされる日本渡来の漆器も展示されていた。村内の民家から見つかったというアイヌ民族の酒造り用の器もあった。
同村にはアイヌ民族を始祖とするクイサリ一族が暮らしていた。「クイ」とはアイヌ民族の意味だ。19世紀後半、3代前のセキンが北海道からこの地へ移り住んだという。一族は1着の蝦夷錦の服を大切に保存していた。クロテン狩りの名人だった2代前のスイルツーが毛皮と交換して、5人の子どもに1着ずつ与えたものという。青色の地に金色の竜が舞う。一族は身内の葬儀の際、錦を切ってひつぎに入れた。「天国でもお金に困らないようにと」との願いを込めて。
1着だけ残った蝦夷錦は、1世紀前の織物とは思えぬほど良い保存状態だった。同村芸術学校長でもある一族のユーリー・クイサリさん(53)は「この服は一族の宝。りりしく狩猟がたくみで、村人からも尊敬されていた先祖と、アイヌの血を引いていることを私たちは誇りに思っている」と胸を張った。
コムソモリスクナアムーレ市郷土博物館には、蝦夷錦をまとった不思議な人形が展示されていた。ナナイの村で収集されたもので、死者を埋葬する際には替わりに1体の人形を家に置き、1年後に焼く風習があったという。黒い小さな目の人形は、何らかの理由で焼かれず、その後も火事などが起きても不思議と焼失を免れた。さらに場所を移す度に災いをもたらすと伝えられていた。
日中の“文化回廊”アムール川
ハバロフスク地方郷土博物館やニコラエフスクナアムーレ市博物館にも、蝦夷錦の官服や祭事用の服が残されていた。蝦夷錦に詳しい函館工業高等専門学校の中村和之教授(北東アジア史)によると、北海道内にも函館や松前などに約30点があり、青森県にも佐井村などに約40点の蝦夷錦が残っている。
当時、アムール川は中国と日本をつなぐ、まさに「文化の回廊」だった。同川流域に残る蝦夷錦や貴重な文化財は、当時の活発な交易活動と人々の交流の様子を今に伝えていた。
写真はすべて著者による撮影
タイトル写真=5カ月間におよぶ氷の季節をようやく終え、5月下旬に再び流れ始めたアムール川。河口から上流約70キロにあるマゴの丘からは幅10キロの大河が見渡せた。斜面にはエゾムラサキツツジがピンク色の花を咲かせる。