東アジア漢字文化圏の再考【Part 2】
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19世紀、東アジアに西欧列強が進出し、日本は開国を決断すると西洋化・近代化に進んだ。1894-1895年の日清戦争と1904-1905年の日露戦争の勝利によって列強の隊列に入る日本を、中国は西洋化のモデルとして見直した。
日中共同チームによる漢字の四次加工
清朝政府は1896年6月15日、日本に第1回目の官費留学生13人を派遣した。以後、その規模は拡大し、1905年には1万人近い留学生が日本で学ぶようになった。中国の近代文学の父といわれる魯迅(1881-1936)、社会主義中国の指導者周恩来(1898-1976)、孫平化(1917-1997)、郭沫若(1892-1978)のほか、軍事家の蔡鍔(1882-1916)、美術家の張大千(1899-1983)、科学者の李四光(1889-1971)らも、日本での体験を通じて中国再建に必要な知的資源を養ったのである。
20世紀初めは、中国の教育界が近代教育に脱皮していく陣痛期と位置づけられる。日本の教育方式の模倣から始める際、留学生たちは日本で使われている各科目の教科書を中国語に訳して活用した。これを可能にしたのは、漢字表記の日本語の読み方がわからなくても漢字の意味における共通性があったからである。西洋思想や科学、学術の日本語訳は漢字によって表現され、その造語が中国留学生の翻訳により中国語化させ、日中の漢字リレーによって漢字文化圏がさらに豊かになった。日中共同チーム主導の“漢字革命”であり、5世紀初頭の日本への漢字伝来から数えれば第四次加工ともいえよう。
中国における日本製漢字の再認識
現代中国ではほとんど死語となっているが、日本で用いられている漢字がある。「雫」や「圀」がそうである。中国では死語とした歴史的な背景があったと考え直すことがあっていいし、逆に日本ではそれを絶やすことなく使い続けてきた文化的背景があったということができるだろう。
中国で日本製漢字を再認識する事例が増えている。『新華字典』の日本語版(一〇版を宮田一郎編訳・光生館・2005年)には、国字「畑」も載っている。「『畑』は日本人の姓に用いる」とある。日本の『大辞林』に相当する国民的辞書に日本製の漢字が掲載される意義は大きい。
中国語に外来語としての日本語の大量流入が二度あった。一回目は明治維新の後から戦前までとすれば、二回目は2000年に入ってからであろう。
例えば、漫画の表象イメージから抽象的漢字・言葉にする場合、「特萌」(すごく可愛い)、「我倒」(ショックを受けたときに使う擬態語に近い表現)などが作られた。いずれも中国語の従来の枠組では考えられない、説明できない、かわった漢字の組み合わせと思われる。抽象と具像の有機関連を象徴する可能性をみせてくれている。
背景にある文化に関係した言語ほどイメージが描きにくいとされている。古典文学で出会う「陽炎(かげろう)」に置き換えられる適切な中国語はまだ見つかっていない。一方、満月をめぐる表現と文学は、中国製のものが日本に受容されているが、「月」の満ち欠けにつれての呼び名は日本製の再生産である。日本語には昔から漢字ないし漢文の受容に対する折衷の工夫の痕跡が見られる。
アジアの記号・グローバル記号としての漢字
日本人が国際化し、西洋で生活した経験をもち英語の読み書きを習得した人の中には夫婦げんかの際、英語で抗論しあうことがよくあるという。中国人も日本語が不自由でないのに論理的に話を展開したいときには、「中国語」という人が少なくない。中国人の議論も理論性が要求され、三段論法式の展開の習慣が本能的に身についている。
西洋語や中国語の対極がおそらく日本語であろう。日本語は感性を大切にする文化にふさわしい。その象徴が和製漢字「侘び(わび)」「寂び(さび)」の精神界であろう。
論理性の強い漢字と漢字文化が感受性の強い日本に出会うとき、化学的反応が起こった。陰陽相克のみではなく、相関、相和、相溶、相好でもある。漢字のこうした性格を通して東アジアの文化関係およびグローバル化の記号・英語に応答できるアジア的記号の行く先が見えると思われる。
(2012年3月1日 記)