地図を見なくなった日本人

社会 文化

「ご郷里のほうは大丈夫でしたか」。3月11日の東日本大震災の後、何度となく人からそう尋ねられた。「ええ、盛岡は内陸ですので、おかげさまで被害はありませんでした」。お見舞いの言葉にたいしてはこう答えるほかはない。もちろん心中は複雑である。なにしろ被災県の非被災市(しかも県庁所在地)なのだから。

そのうちに分かってきたことがある。かなり多くの人たちが、東北地方の地図をイメージできていない。各県の位置関係、山脈・高地・河川・海岸線、さらには通っている鉄道の大略について、そうとうに無知だということを。西南日本の人たちにはことさらそうであろう。ひとはだれでも自分の居住する地方の地図はあたまに描くことはたやすいが、遠くなるほど輪郭はぼやける。

しかしである。「津波はそこまでは来なかったんですね」となると、絶句に近い。震災後、連日のように新聞には東北地方(とくに被災3県)の地図が載った。それを見ていれば、これまで苦手だった東北の地図もいやでも学習させられたはずである。もっとも新聞に載る地図には色がついていない。色がついていないと土地の高低が分からない。つまり、平野と山地がどうなっているかが分からない。色でいうと、緑と茶ということになるのだが、たとえばその岩手県。ほとんど茶色である。中央部に細く緑色が走る。南北に貫流する北上川流域だけが緑色で、あとは圧倒的に茶色の県なのだ。海岸から中央部のわずかな緑色まで北上高地という茶色が居座っている。「津波がそこまで来る」ものか! 宮古から盛岡まで(あるいは釜石から花巻まででもいい)100キロも離れているんだ。

中学校に入れば、「地図帳」というのを買わされる。簡略なものだが、持ったときはうれしいものだ。海外旅行はおろか、国内旅行すらめったにすることもなかった時代、あかず地図をながめて夢をまどろんでいた少年は少なくなかっただろう。簡単に行くことができないぶん、地図上で仮想の旅をして遊んでいただろう。生きていれば百歳の伯父がそうだった。地図少年が師範学校に行って、田舎教師になり、生涯旅行らしい旅行をしないまま逝った。日本中、世界中の地名を知っていた。

どこにでも行ける時代になって、人は地図を見なくなったのではないか。旅行先の地図は見る。しかし、そうでもないところは見ない。目的なく地図をながめるという遊びがなくなった。たとえ地図上であっても、知らない土地とそこに住む人々をあれこれと思い描いていてこそ、「共感」というものがある。

(2011年11月22日 記)