ニッポン偉人伝

安藤百福:世界の食文化を変えたミスターヌードル

文化

お湯を注ぎ、数分待つだけで食べられるインスタントラーメン。いまや世界中で愛されるこの食品を開発した元祖が、日清食品創業者の安藤百福(あんどう・ももふく)だ。2018年秋放送予定のNHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルともなる彼の波乱万丈の人生と、独創的なアイデアを紹介する。

妻が作る“天ぷら”から生まれた発明

インスタントラーメン作りに挑んだきっかけは、戦後の食糧難の時代、大阪駅近くの闇市で見た光景だという。寒空の下、1杯のラーメンを食べるために並ぶ長い行列を見て、「やっぱり食が大事なのだ。食がなければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない」と痛感。同時に、日本人が無類の麺類好きであること、この行列に大きな需要が隠されていることを確信したという。

そして、自分が食うにも困る状況に陥った時、その光景を思い出し、簡単にすぐ食べられて保存性もあるラーメンの開発を試みたのだ。

研究小屋は、わずか10平方メートル、道具も材料もありふれたものだった

1日平均4時間しか寝ないで、1年間休まずに研究を続けた。最も大きな壁は、長期保存に耐えうる「乾燥法」と、お湯を注いで食べるための「仕掛け」。そして生まれたのが、麺を油で揚げることで水分をとばす「瞬間油熱乾燥法」だ。

安藤が育った台南市には、ゆでる前に麺を揚げておく「意麺(イーメン)」がある。揚げた後は日持ちするため、意麺をインスタントラーメンのルーツだと言う人もいる。しかし、実際に突破口となったのは、妻が台所で揚げていた「天ぷら」だった。水分をはじき出しながらカラッと揚がる様子を見て、「油熱」による乾燥法がひらめいたという。

チキンラーメンには天ぷらの原理が生かされている

1958年8月、安藤は「チキンラーメン」を発売。麺に鶏ガラや香辛料を煮詰めたスープを染み込ませ、お湯を注ぐだけで食べられる。当時は「魔法のラーメン」と呼ばれ、瞬く間に爆発的な人気を集めた。

仁子夫人は、安藤から「ラーメンの仕事をやるぞ」と最初に言われた時、「どうせやるなら日本一のラーメン屋さんになってください」と激励したという。それに応えるかのように、日清食品は創業からわずか5年で年商43億円の企業に成長した。

初代「チキンラーメン」のパッケージ。当時は、中身が一目で分かるように袋に透明の窓が付いていた

カップヌードル誕生—小さなひらめきが、世界を動かす

チキンラーメン発売から13年後の1971年。安藤は61歳にして、再び世界を驚かす新商品「カップヌードル」を発明した。袋麺からカップ麺へ—。小さな変化に思えるが、これによって日本生まれのインスタントヌードルは、国境を超えた広がりをみせる。

現在のカップヌードルの定番ラインアップ。ロゴやパッケージデザインは、発売時からほとんど変わらない

ヒントを得たのは、66年の米国市場視察の時。チキンラーメンを現地のバイヤーに売り込んだものの、近くにどんぶりや箸がないため、すぐに食べることができなかった。するとスーパーの仕入れ担当者たちは麺を2つに割って紙コップに入れ、お湯を注いでフォークで食べ始めた。

これを目の当たりにした安藤は、「食習慣の壁を越えることが世界進出のカギになる」と直感。再びさまざまな知恵を結集し、5年間の試行錯誤の末、使い捨てカップ入りのカップヌードルを世に出した。

開発は、食器・調理器具・包装材料という3つの機能を兼ね備えるカップ選びから始まった。写真は内部構造で、麺を宙づりにすることで麺とカップの耐久性を高めている

ところが今回は、発売後に新たな壁が待ち受けていた。袋麺より価格が高いことが敬遠され、売り上げはいまひとつだった。しかし、粘り強く営業を続ける中、翌年にチャンスが訪れる。

きっかけは、日本中がテレビの前にくぎ付けとなった「あさま山荘事件」(72年2月)。弁当も凍りつく極寒の地で過激派が人質をとって立てこもる中、警察機動隊員の食事としてカップヌードルが活躍。湯気を立てた麺をおいしそうにすする隊員たちの姿が繰り返しテレビに映り、人気に火がついた。

カップヌードル発売初期の、給湯機能付き自動販売機

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