世界が認めた「ジャパニーズ・ウイスキー」:蒸留所の舞台裏を訪ねて
Guideto Japan
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ウイスキーは大人の酒だ。 最上級銘柄のボトルの栓を抜き、小ぶりで先細のグラスにわずかな量を注いでみてほしい。しばらくすると原料の麦芽に由来する豊かな香り、熟成による甘くて華やかな香り、森の中にいるような落ち着いた香りや少し焦げたような木の香り…。それらが混然と混ざり合い、人の感性の奥を揺さぶってくる。 大麦と水だけでつくる酒が、なぜこんな複雑な味と香りを醸し出せるのか。答えは蒸留後10年、20年以上にも及ぶ樽熟成と、その樽が置かれる周囲の自然環境、そして長期熟成に耐える原酒をつくる人間の英知と技術にあるという。
ジャパニーズ・ウイスキーが1、2位を独占した驚き
英国の専門誌『ウイスキーマガジン』が2001年に初めて行ったコンテスト「ベスト・オブ・ザ・ベスト」の結果に、世界の愛好家たちは目を見張った。ニッカウヰスキーの『シングルカスク余市10年』が総合第1位、サントリーの『響21年』が2位と、日本勢がトップを独占したからだ。
コンテストは同誌が世界各地から選んだ47のウイスキーを英国、米国、日本の専門家62人がブラインドで評価した。本場スコットランドの名だたるスコッチウイスキーを抑え、「ジャパニーズ・ウイスキー」が初めて“世界最高峰”と認められた瞬間だった。
1924(大正13)年に京都郊外・山崎の地で、寿屋(現サントリー)が初めて国産のモルト原酒を蒸留してから今年で90年。下の表でも明らかなように、今や日本のウイスキーは味わい・品質ともに、スコッチと完全に肩を並べる。その秘密の一端を、ものづくりの現場を訪ねて探ってみた。
「スコッチを超えた」日本ウイスキーの主な受賞歴
2001 | WM ベスト・オブ・ザ・ベスト 総合第1位 | ニッカ シングルカスク余市10年 |
---|---|---|
総合第2位 | サントリー 響21年 | |
2007 | WWAワールド ベスト ブレンデッド | サントリー 響30年 |
WWAワールド ベスト ブレンデッドモルト | ニッカ 竹鶴21年 | |
2008 | WWAワールド ベスト ブレンデッド | サントリー 響30年 |
WWAワールド ベスト シングルモルト | ニッカ シングルモルト余市1987 | |
2009 | WWAワールド ベスト ブレンデッドモルト | ニッカ 竹鶴21年 |
2010 | WWAワールド ベスト ブレンデッド | サントリー 響21年 |
WWAワールド ベスト ブレンデッドモルト | ニッカ 竹鶴21年 | |
2011 | WWAワールド ベスト ブレンデッド | サントリー 響21年 |
WWAワールド ベスト シングルモルト | サントリー 山崎1984 | |
WWAワールド ベスト ブレンデッドモルト | ニッカ 竹鶴21年 | |
2012 | WWAワールド ベスト シングルモルト | サントリー 山崎25年 |
WWAワールド ベスト ブレンデッドモルト | ニッカ 竹鶴17年 | |
2013 | WWAワールド ベスト ブレンデッド | サントリー 響21年 |
WWAワールド ベスト ブレンデッドモルト | マルス モルテージ3プラス25 28年 | |
2014 | WWAワールド ベスト ブレンデッドモルト | ニッカ 竹鶴17年 |
(※)WMは英専門誌ウイスキーマガジン、WWAはワールド・ウイスキー・アワード
80年前のたたずまい守る余市蒸留所
札幌から鉄道を乗り継いで1時間。北海道・積丹半島の付け根にある余市はリンゴ、サクランボなど果樹園芸が盛んな人口2万人の町だ。以前はニシン漁でにぎわったが、いまは見る影もない。世界一のモルトを生んだニッカの蒸留所は駅前近くに石造りの門を構え、80年前の創業以来のたたずまいを守っている。
「(2001年に世界一になった)シングルカスク10年は、貯蔵・熟成に新樽を使ったものです。重厚でコクがあるタイプの原酒ができたので、あえて挑戦した。3、4年たって調べてみたら『これはいい』と。樽とのマッチングがうまくいった」。工場長の杉本淳一は当時をこう振り返る。
モルト原酒の貯蔵はバーボンウイスキーの貯蔵に使われた空き樽や、シェリー酒の空き樽を使うのが一般的。木の香りが強い新樽は原酒の持つ繊細なフレーバーを壊してしまうこともあり、「使いこなすのは難しい」というのが定説だった。
「リスクもあったが、樽の(内面の)焼き方なども工夫してやってみた」。この成功を見て、スコットランドの蒸留所でも貯蔵に新樽を使うケースが出てきたという。
石炭直火が「力強い」原酒生む
余市の原酒は「重厚で力強い」というのが定評。これを生み出すのがおそらく世界で唯一残っている、石炭の直火でたく単式蒸留器(ポットスチル)だ。
蒸留は、発酵後の醪(もろみ)からモルト原酒を生み出す最後の工程。ポットスチルはまさに蒸留所の心臓部だ。担当の作業員は操業中、釜の温度をモニターで監視。10分ほどの間隔で、シャベルを使ってスピーディーに石炭をくべる。見ると、一つ一つの釜の上部にはしめ縄が施されている。これは創業者・竹鶴政孝(1894-1979)の生家が日本酒の蔵元であったことに由来する。
重労働の上に、火力のコントロールも難しい昔ながらの作業。工場長の杉本は「科学的な証明はできないのだが、石炭が燃える際の(火力の)“ゆらぎ”が複雑な作用を生み出していると思う」と語る。「創業以来のものだし、この蒸留器で余市ならではの原酒ができている。だから、石炭直火を変えることは今後もないでしょう」。
竹鶴のこだわり、スコットランドに近い風土
竹鶴はスコットランドになるべく近い「冷涼で湿潤な」風土を求めた末、本拠地を余市に定めた。蒸留所の開設は1934(昭和9)年。モルト原酒をつくっても最低3年から5年の貯蔵を経なければウイスキーとしては出荷できないため、当初はリンゴジュースやアップルワインを製造して経営を支えた。
「自然と風土がウイスキーの個性をつくる」という竹鶴の信念が今も貫かれているもう一つの場所が、蒸留所内にある原酒の貯蔵庫。床は土間で、樽は2段積みまでというのが創業以来のルールという。あくまでも素朴な建屋の周囲には、蕗(フキ)が自生している。
ウイスキーは貯蔵中、樽を通じて外気に触れながら、長い時間をかけて熟成していく。杉本は「ここから日本海の海岸までわずか900メートル。これも証明はできないが、潮風の作用も原酒に複雑な香りを与えている」と説明してくれた。
国産ウイスキーを生んだ鳥井と竹鶴
日本のウイスキー製造の歴史は、摂津酒造の技師だった竹鶴が社命でスコットランドに派遣された1918(大正7)年に始まる。当時の国産“ウイスキー”は、中性アルコールに味と香りをつけただけの模造品だった。
竹鶴はグラスゴー大学の応用化学科で学んだほか、ロングモーン・グレンリベット蒸留所(スペイサイド)やヘーゼルバーン蒸留所(キャンベルタウン)で実習経験を積んだ。だが、1920年に帰国した際、摂津酒造は本格的なウイスキー製造開始に二の足を踏む。第一次世界大戦後の恐慌で、日本は不景気の真っただ中にあった。
竹鶴が持つ技術と経験を認め、彼をスカウトしてウイスキーの製造に乗り出したのが寿屋創業者の鳥井信治郎(1879-1962)。鳥井は当時、輸入ぶどう酒を日本人向けに飲みやすくした『赤玉ポートワイン』をヒットさせ、その勢いを駆って新事業への投資を決断した。
鳥井と竹鶴が生み出した国産初のウイスキー、『サントリー白札』が世に出たのは1929(昭和4)年。だが、その5年後に竹鶴は鳥井と袂(たもと)を分かち独立する。
鳥井は1937年、現在も主力商品であるロングセラー『角瓶』を発売。竹鶴も1940年に最初の製品『ニッカウヰスキー』を発売するが、まもなくウイスキーも戦時統制品に指定される。業界にとって不幸中の幸いだったのは、軍納入品として原料調達には何ら支障がなく、戦時下でもモルト原酒の生産を続けることができたことだった。
日本のウイスキーをめぐる主な歴史
1853 | ペリー率いる米艦隊が日本人に初めてウイスキーをふるまう? |
---|---|
1870ごろ | 日本人用のウイスキーの輸入始まる |
1902 | 日英同盟締結。この後に輸入洋酒でウイスキーの比率が高まる |
1918 | 摂津酒造の技師、竹鶴政孝がスコットランドにわたりウイスキーの製造を実習(1920年帰国) |
1923 | 寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎が国産ウイスキー製造を計画。竹鶴が寿屋入社 |
1924 | 寿屋の山崎蒸留所が竣工 |
1929 | 国産ウイスキーの第1号、『サントリー白札』発売 |
1934 | 竹鶴が寿屋を退社。大日本果汁(現ニッカウヰスキー)を北海道・余市で設立 |
1937 | 現在の『サントリー角瓶』が発売 |
1940 | ニッカが最初のウイスキーを発売 |
1955ごろ | 大都市にトリスバーが次々に開店し、ハイボールが人気に |
1964 | ニッカと関連の深いアサヒビールの子会社が日本で初めて本格的なグレーンウイスキー生産を開始 |
1969 | ニッカが同社2つ目となる宮城峡蒸留所を設立 |
1971 | 洋酒の輸入完全自由化 |
1973 | サントリーが同社2つ目となる白州蒸留所を設立 |
キリン・シーグラム(現キリンディスティラリー)が富士御殿場蒸留所を設立。翌年『ロバートブラウン』を発売 | |
1983 | 上昇基調だったウイスキー市場がピークに。以降、2008年までほぼ一貫してダウン |
1989 | サントリーが『響』発売 |
2000 | ニッカが『竹鶴』発売 |
戦後の洋酒ブームで生産設備増強
第2次世界大戦後、日本社会の復興が軌道に乗り始めた1955年ごろから洋酒ブームが到来。これまで圧倒的なシェアを誇ってきた日本酒に代わり、都市部を中心にビールやウイスキーの需要が増大する。高度成長期の1964年には、ブレンデッドウイスキーに欠かせないグレーン原酒(とうもろこしなどを原料とし、連続式蒸留器でつくられるウイスキー)が日本でもようやくつくられるようになったほか、ニッカが宮城峡(1969年)、サントリーが白州(1973年)に相次いで自社2つ目のモルト原酒蒸留所を開設した。
スコットランドにはモルト蒸留所が100以上もあり、それぞれが個性豊かな原酒を生産。蒸留所間では自社と違うタイプの原酒を確保する目的で、原酒の交換や売買が日常的に行われる。ジョニー・ウォーカー、バランタインといったスコッチのブレンデッドウイスキーは、それらの原酒を場合によっては40種類以上も組み合わせて複雑な味と香りを引き立たせている。
日本に同様のシステムはなく、各メーカーは自社だけで多種多様なタイプのモルト原酒をつくりだしていかねばならない。原酒の増産という目的のみならず、ウイスキーの質の向上という面でも「第2の蒸留所」建設は必要不可欠なものだった。
逆に言えば、戦後復興・高度成長の過程でこれほどウイスキーの需要が伸びなかったとしたら、サントリーもニッカも蒸留所増設という「攻めの経営判断」は出来ず、日本のウイスキーは世界水準に達していなかったかもしれない。
ニッカのチーフブレンダー、佐久間正はこう話す。「宮城峡蒸留所(仙台市青葉区)は周囲の環境、気候から製造に使う設備、機器にいたるまで、すべからく余市とは違うようにつくられている。意図は明らかで、力強い余市と対照的な、柔らかで華やかな原酒をつくりたいからです」。
サントリーが持つ2つの蒸留所の立地の違いも対照的。山崎が大都市・大阪に近い名水の地にあるのに対し、白州(山梨県北杜市)は南アルプスに隣接する標高700メートルの森の中にある。同社は原料の構成や製造工程を細かく変えることなどにより、両蒸留所合わせて100タイプ以上の個性を持つ原酒をつくり分けている。
1980年代から国内市場は低迷
経営的には順風満帆だった日本のウイスキーメーカーにも、やがて転機が訪れる。ウイスキーの課税数量は1983年に379,000キロリットルでピークに達した後、2008年までほぼ毎年のように減少。市場は25年間で、全盛期の5分の1にまで縮小した。
1984年のウイスキー増税に加え、甲類焼酎を炭酸で割った「チューハイ」ブームの影響、嗜好の多様化によるワイン需要の伸びなどが原因として挙げられる。輸入ウイスキーの関税も大幅に下がった。国産メーカーの中には、メルシャン軽井沢のように閉鎖された蒸留所も出た。
ハイボールブームで市場が好転
日本のウイスキー市場は2009年にようやく好転。2013年まで5年連続で課税数量は増加している。サントリーが仕掛けた「ハイボールキャンペーン」が当たり、若者世代が再びウイスキーを認知するようになった。
同社の白州蒸留所から生まれた『シングルモルト白州』も、「爽やかな森の香りがする」とハイボールブームの中で人気となっている。工場長の小野武は「白州ブランドはノンエイジが若葉、12年が新緑、18年が熟したフルーツ、25年が濃厚なジャムと、森の四季を感じられるイメージでラインアップしています」と説明した。
需要低迷期、生産技術を「一から見直し」―サントリー
小野は1989年の入社。ウイスキー人気が下降していく“逆風”の中、技術者・ブレンダーとして生産にかかわってきた。
サントリーでは1990年ごろ、技術者の“経験と直感の領域”に多くを頼っていたそれまでのやり方から、サイエンスの視点も取り入れた「ウイスキーづくりを一から見直す」全社的なプロジェクトが行われたという。
モルトウイスキーの製造工程を簡単に説明すると、原料の二条大麦を発芽させ、ピートでいぶした麦芽をつくる。それを粉砕し、温水と混ぜて糖化した麦汁をつくるのが第2の工程だ。麦汁は発酵槽に移され、酵母を加えて70時間ほどおくとアルコール分6-7%のウオッシュ(発酵終了醪=もろみ)が出来上がる。
これを単式蒸留器(ポットスチル)に2回かけ、アルコール度数70度ほどもある無色の酒(ニューポット)を取り出すのが第4の工程。ニューポットは少量の水を加えてアルコール度数60度にし、樽の中で最低3年、多くは5年、10年、15年と貯蔵・熟成される。
話を戻すと、小野が語るプロジェクトの中身とは次のようなものだ。
「例えば酵母は成長、熟成、枯れていく過程といくつかのフェーズがあるが、どこで最もうまみ成分を出すのかを科学の目でみていった。また発酵初期に出る泡の高さを高い状態で維持すると、うまみ成分を多く引き出せるということが分かった。その時のうまみ成分の評価の仕方だが、もろみの中にある1つのアミノ酸の量がどれぐらい移行しているのかを見たり、そういうことをいろいろやっていった」
「ウイスキーの“右肩上がり”の時代は終わり、このままではダメだと。もっといいものをつくらなければという問題意識があった。当社のシングルモルト山崎の発売は1984年のことだが、今後はより個性のあるモルト原酒を出していこうと。そんなマーケティングの転機の時期にもあたっていた」
一方で、小野は「ウイスキーづくりは決まったものをそのままやればできるわけではない」とも語る。仕込み・発酵時の気温や湿度は、一回一回条件が違う。「それらに対応できる現場の細かいチューニング能力、ノウハウの蓄積には時間がかかる。ここの施設は33年前にできたが、長い年月をかけてレベルを上げてきた」と振り返る。
「世界一のシングルモルト」をつくり出したニッカ
サントリーのライバル、ニッカも1980年代、「世界に冠たるウイスキーをつくろう」を合言葉に本格的な品質向上に取り組んだ。輸入洋酒の関税引き下げが進み、「今後は外国ウイスキーとの激しい競争にさらされる」との危機感が背景にあった。
1982年に入社し、新人時代を余市で勤務したチーフブレンダーの佐久間は「当時はすべての技術者が結集して、あらゆることを試した。原料や酵母、樽の見直しに始まり、製麦から蒸留にいたるまでの“造り”の部分もかなり変えた。全社で『世界一をとろう』とものづくりに取り組んでいた」と語る。
その努力は20年後に報われることになる。2008年の世界的なウイスキーコンテスト、ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)で『シングルモルト余市1987』がワールド・ベスト・シングルモルトを受賞。日本勢では初のシングルモルト「世界一」となった。
佐久間は「まさに我々が目指していたものを実現したわけだが、これは偶然ではなかったのだと思う。その後の数多くの受賞歴も、この時引き上げた技術がベースにある」と胸を張る。
ニッカの創業者、竹鶴政孝は1968年、自らの半生を語った新聞の連載(日本経済新聞『私の履歴書』)の中で、かつて現地で実習したスコットランド・グレンリベット蒸留所のモルトについて「今でも実にいいかおりで、伝統の強みがそこからにじみ出ている…。このかおりが実はなかなかでないのだ」と書いている。現在のジャパニーズ・ウイスキーの評価を考えると、隔世の感がある。
ジャパニーズ・ウイスキーとは? 対照的なサントリーとニッカ
近年では、サントリーではフラッグシップとなるブレンデッドウイスキー『響』とシングルモルトの『山崎』、ニッカではブレンデッドモルト(ピュアモルト)の『竹鶴』が“世界一”の常連。だが興味深いことに、両社にはウイスキーをめぐって明らかな見解の違いが見てとれる。それはスコッチとの距離の取り方だ。
ニッカの求めるウイスキーの理想は、あくまでも本場スコッチの延長線上にある。チーフブレンダーの佐久間は「われわれのウイスキーとスコッチは何の違いもない。ことさら日本のウイスキーと強調する意識はない」と断言する。
「“同じ言語”でつくっている酒だし、しいて挙げれば言葉のアクセントが違うくらいのもの。例えばスコッチとニッカのウイスキーが注がれた100個のグラスが並んでいるとしましょう。どれがジャパニーズか、たぶん分からないでしょう」
一方、サントリーは「スコッチとわれわれのウイスキーは、個性が異なる」と強調する。日本の洋酒シェアトップで業界リーダーの同社は、日本人の味覚に合った和食にも合うような製品づくりを追求してきた。
白州工場長の小野は「スコッチはスコットランドの風土から生まれた酒。私は、ジャパニーズウイスキーは日本の四季が育んだ酒だと考えている」と話す。
「スコッチと比べると、熟成感は温暖な気候の日本が優っており、これがジャパニーズの特徴といえる。これに加えて、日本人の味覚で鍛えられた“なめらかさとバランス”が、今になって世界から評価をいただいているのではと思う」
タイトル写真:ニッカウヰスキー余市蒸留所で貯蔵中の樽からモルト原酒を取り出し、熟成状況を確かめる技術者=2014年6月20日
文:石井雅仁(編集部)
ニッカ余市蒸留所・取材撮影:山田 愼二