丸若裕俊:“日本文化の再生屋”が導くお茶の未来
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「世界と勝負する」その決意から“日本文化の再生屋”へ
美しく輝く絹の着物から、陶磁器や漆の塗り椀、畳に障子などの建具に至るまで。日本各地で受け継がれてきた日本の伝統工芸が今、再び注目を集めている。訪日外国人観光客の増加や2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を追い風に、伝統的な職人の手仕事と現代的なデザインを融合させ、新しい形で“日本らしさ”を表現する取り組みが活発化しているのだ。
丸若裕俊はものづくりプロデューサーとして、こうした流れを決定づけた先駆者の一人。日本全国の工芸産地を飛び回り、職人たちとの協働によって数多くの品々を生み出してきた。
例えば、日本を代表する磁器である九谷焼の窯元(かまもと)・上出長右衛門窯(かみでちょうえもんがま)の六代目・上出惠悟とともに手がけた髑髏(どくろ)型の菓子壺。同窯元と世界的デザイナーのハイメ・アジョンのコラボレーションによる器や、スポーツブランドのプーマから発表された曲げわっぱの弁当箱。そして、鹿革に漆の紋様を施した「印傳(いんでん)」によるiPhoneカバーetc.。最近よく見かける“和テイスト”のデザインとは一線を画した、骨太な印象のものばかりだ。
10年余りの活動を経て“日本文化の再生屋”と呼ばれるようになった丸若だが、現在の“伝統工芸ブーム”には危機感を抱いているという。
「確かに、日本のものづくりを謳う製品が増えたのは事実です。でも僕には、その少なからずが“雑貨化”しているように映ります。外国人観光客市場を見込んで日本風を装ってはいるものの、およそ本物とはかけ離れたものばかり。人々の“ものを見る目”は衰え、優れた技術に対する正当な評価がなされないまま、産地の経済状況や職人の高齢化は深刻になる一方です」
そう語る丸若自身も一般的な日本の若者の例に漏れず、二十歳過ぎまでは伝統工芸とはほぼ無縁の生活を送っていた。転機が訪れたのは、海外有数の高級カジュアルブランドに勤務しながらストリートアーティストとして活動していた23歳のこと。出張先の石川県で、九谷焼美術館に展示されていた古九谷の大皿(17世紀)を前に、大きな衝撃を受けた。「自分一人の表現をはるかに凌駕(りょうが)する、こんなにすごいものが日本にはある。これなら世界と勝負できるはずだ」
とはいえ、伝統工芸には何のツテもなかった。熱意だけを頼りに九谷焼の窯元をはじめ、大館曲げわっぱ(秋田県)の職人や越前塗(福井県)の塗師の元などへ足を運び、持ち前の感性で新たな製品企画を提案。地道な努力で信頼関係を築きながら、印傳iPhoneカバーや上出長右衛門窯×ハイメ・アジョンの器を最先端デザインの発信イベント「DESIGNTIDE TOKYO」で発表し高評価を集めるなど、一歩ずつ実績を積み重ねていった。
「世界と勝負する」という決意通り、2014年にはパリ・サンジェルマン地区にギャラリーショップ「NAKANIWA」をオープン。ヨーロッパの一流シェフたちがこぞって訪れる東京・合羽橋の料理道具屋「釜浅商店」取り扱いの包丁や、有田焼の文祥窯(ぶんしょうがま)による白磁の器など、自身の目利きによる製品を次々に展開していった。
日本茶を突破口に、形骸化した伝統産業に風穴を
その丸若がものづくりをやめるらしい——。そんな噂を耳にしたのは、2017年春のこと。
発端は、前年秋にNAKANIWAで日本茶のオリジナルブランドを発表し、その後4月に東京・渋谷で茶葉店「幻幻庵(げんげんあん)」をオープンしたことだった。
「それは完全なる誤解です(笑)。自分の中では、ものづくりと日本茶の事業は完全につながっています。そもそもなぜ日本茶に関心を持ったのかといえば、パリと日本を行き来する中でお土産として運びやすく、誰にも受け入れられやすかったから。ヨーロッパでどんなお茶が喜ばれるかを身をもって試していくうちに、日本のお茶には文化や歴史、作り手の思いなど、さまざまな情報が凝縮されていることを実感しました。その情報を入り口に人と人をつなぐことで、人々と日本文化をつなげるこれまでの取り組みをさらに発展させられるかもしれない。そう感じたのです」
そして、その予感を確信に変える出来事が訪れる。パリのギメ東洋美術館で有田焼のワークショップを依頼された際、窯元の紹介で佐賀県嬉野の茶師・松尾俊一を紹介されたのだ。家業の茶畑を継いでわずか数年で、お茶の最高賞ともいわれる全国茶品評会の農林水産大臣賞を獲得した若き俊英。彼もまた、日本茶の持つ可能性をさらに広げていきたいと考えていたと丸若は語る。
「対話を重ねるうちに、日本の伝統的なものづくりを取り巻く問題と、同じく伝統産業である日本茶が抱える問題が同じであることに気づきました。松尾は自ら全国の茶畑を訪ね歩いて数百種類のお茶を飲み続け、地質や日照などの風土とお茶の風味との関係性を徹底的に研究し、その知見を自らの茶作りに反映しています。市場調査に基づいて新規開発を行ったという点では通常の企業活動ですが、家業による小規模経営が中心の伝統産業の世界ではこうした努力が行われていないケースが数多い。このままではいけないという危機感の一方で、だからこそお茶にはまだ大きな可能性が眠っているはずだと確信しました」
伝統工芸と日本茶。どちらも市場縮小に直面し、安価で品質の低い製品の蔓延を許している点では同じだった。伝統的な農法で作られた正統な緑茶と、安価な茶葉に発色や甘みを引き出す添加物を加えた緑茶。どちらが本物なのか、当の日本人の大半がわからなくなってしまった背景には、食生活や嗜好の変化を超えた構造的な問題が潜んでいた。
「やるからには、お茶本来の味で勝負したい。自然農法を見つめ直し、自分の子どものように手を掛けながら育てていけば、必然的にその土地のテロワール(風土)を反映した茶葉になるはず。その茶葉ごとの香りや渋みをブレンドによってコントロールしてやれば、今の日本人の多くがイメージするお茶よりもはるかに個性が際立ち、心に残る味わいのお茶が出来上がります」
さらに松尾のお茶は、従来の日本茶の多くが達成できなかったヨーロッパの農薬基準値をもクリアする。「日本で出回っている多くのお茶がどうやって作られているのか、逆に考えてしまいますよね」と丸若は苦笑する。
破天荒上等。日本文化を再定義し未来を開く
オリジナルの茶を作り、渋谷に拠点も構えた。肝心なのは、ここからいかにして認知度を高めていくか。
「単に茶葉を売るのではなく、日本茶を楽しむ時間や新しいライフスタイルを提案したい。その一例として、容器にティーバッグと水を入れ、振るだけですぐに味わえる水出し茶を作りました。これなら急須や湯飲みを持たず、お茶の淹(い)れ方も知らない若者や外国人も手軽に楽しむことができます。まず興味を持ってもらい、次に器などの道具を手にしていただく。これまで手がけてきたものづくりとお茶が、ここでつながってくるわけです」
間口を広げたいという言葉通り、幻幻庵は渋谷のストリートテイストが漂うカウンター中心の空間。客層も今風の若者たちの姿が目立つ。メニューは「釜炒り茶」や「ほうじ茶」などの定番から、「カモミールほうじ茶」や冷たい「レモングラス緑茶」などの変わり種まで。テイクアウト主体のため、器はカフェを思わせる使い捨てカップが中心だ。
「お茶というものを再定義したい。『作法がなっていない』『日本文化をナメている』と言う人がいるかもしれませんが、日本文化には本来、固定観念をひっくり返し続けてきた破天荒な側面があるはず。明治時代に焼き物を輸出したときの包み紙の一部に春画が使われ、絵柄だけでなく作品としてのクオリティの高さが西洋の人々の度肝を抜いたという逸話は、そのことをよく表していると思います」
世界での勝負も既に始まっている。9月に開催されたデザイン・インテリアの世界的見本市「メゾン・エ・オブジェ・パリ」では、日本を代表するクリエイティブ集団・チームラボとともに一服の茶の中に花や宇宙を映し出すデジタルインスタレーション作品を発表した(リンク:日本のお茶が世界をつなぐ—茶碗の宇宙に咲くデジタルの花)。
このとき初めて掲げられたブランド名は「EN TEA」。さまざまな物事がつながる“縁”の考え方や、禅画の「円相図」のように和合する日本文化の精神性を表現した。
「決して文化の押し売りをしたいわけじゃない。日本を知らない地球の裏側の子どもたちにも愛してもらえるような、言葉を超えたお茶を届けたい。その一念です」
そう語る丸若が敬愛し、自身の姿を重ねるのが、江戸時代の禅僧・売茶翁(ばいさおう)だ。
「権威化した茶道に対して、中国の茶師の格好をして路傍で煎茶を点てながら哲学的な対話を重ね、評判を呼んだ人物です。300年前にこんなにパンクで破天荒な人がいたんだと、興味を抱きました。『幻幻庵』の名は、彼の最期の住処から。日本文化だからと大上段に構えるのではなく、『何だか面白そうだし、飲んでみたら美味しいじゃん!』と受け入れられるほうが、よほど本質的だと思うんです。日本の未来に貢献したいという気持ちはもちろんあるけれど、お茶や伝統工芸の状況を変えたいからではなく、あくまで自分が好きなもので世界と勝負したい。それが結果として世の中の変化につながっていったなら、嬉しいですね」
取材・文=深沢 慶太写真=大河内 禎