日本の音楽シーンを変えた先駆者:音楽家・村井邦彦さんからの明日へのメッセージ
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知的所有権を守らなければ…
——村井さんは、作曲家として日本人なら誰でも歌える「翼をください」や札幌冬季オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」など300曲もの作品を手掛けた。また、プロデューサーとして1970年代に荒井由実(松任谷由実)、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ:細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一)を中心にJ-POPの基礎を築き、日本の音楽シーンに革命を起こした。
村井邦彦 僕の音楽のベースになっているのはジャズとクラシック。中学のときからビッグバンドに憧れ、大学では「ライト・ミュージック・ソサイエティ」でピアノやサックスを演奏することで音楽を学んびました。同時に、大学生でありながらレコードショップを経営したことで、どんな曲がヒットするかリアルタイムで知ることができました。でも、マーケティングよりも自分の好きな音楽が大事だったのは言うまでもありません。要するに音楽が好きで音楽を一生懸命やっているうちに作曲家になった、という感じですね。
プロデューサーとしての核心は「自分が感動できないのにどうして人を感動させることができるか」ということ。アーティストは才能、本質、キャラクターといったもので評価されますが、アベレージ的な人をいくら教育してもスーパースターにはならないんです。やっぱり抜きん出てとんがってる人をさらに磨いてあげないと。
——村井さんは作曲家、プロデューサーばかりではなくアルファレコードをつくり、その代表者として米国の大手レコード会社A&Mと業務契約を果たす。その村井さんの若き日に強く影響を与えた人物がいる。
村井 「キャンティ」(※1)のオーナーだった川添浩史さん(※2)という戦後の日本の芸術・文化の国際交流に偉大な功績を残した方と、高校生のときに出会いました。キャンティは文学や芸術の分野において、国内外で活躍する人たちのサロンでした。年齢に関係なくさまざまなキャリアを持つ人々と交流するうちに、僕は60年代後半から70年代の先進社会の文化的な動きを肌で感じ、日本でも知的所有権を守っていかないと難しい時代を迎えると思うようになりました。
当時の日本は音楽関係者でさえ著作権に関する認識が浅く、ましてや海外における著作権の在り方など考える人はとても少なかった。川添さんとキャンティとの出会いが僕を最先端の音楽ビジネスの動向に敏感にさせてくれたと思います。その後、川添さんがセッティングしてくれた友人のレコーディングでパリへ行き、その受け入れ先のバークリー音楽出版の方から「日本で音楽出版の代理店をやらないか?」と誘われました。バークリーはすぐに米国のスクリーン・ジェムズ・コロムビアを紹介してくれ、これがきっかけとなって欧米の音楽人との交流が始まりました。僕はパリ、ロンドン、ロサンゼルス、ニューヨークとまるで人工衛星のように世界を飛び回り、最新の情報が渦巻くなかで、音楽を通じて世界中の人たちと緊密な関係を築いていきました。
日本の音楽を世界へ輸出
——スクリーン・ジェムズ・コロムビアは当時ニール・セダカやキャロル・キングを抱える音楽出版社。同社との契約によって、村井さんにはYMOの世界進出にも関わる弁護士との出会うことになった。
村井 キャロル・キングのプロデューサーだったルー・アドラーが72年に初来日し、日本の音楽のいくつかを彼に聴かせたら、「このベースすごくいいよ」と細野晴臣君を絶賛した。彼とはレコーディングでよく仕事をしていたから嬉しくて、僕は日本の音楽が世界に通用する日が必ず来ると信じた。このときにルー・アドラーの弁護士として同行したエイブ・ソマーと意気投合して、ロサンゼルス滞在中はエイブの家に泊めてもらう仲になりました。細野君には僕がプロデュースするユーミン(荒井由実)やアルファのアーティストの音楽監督を任せ、後に「全世界で売れるものを一緒につくろう」と専属の契約を結び、そこからYMOが誕生します。
生き馬の目を抜く
——1978年、アルファは横綱格の日本のレコード会社各社を差し置いて、アメリカの大手レコード会社A&Mと業務契約を締結。後にYMOが世界進出を図るための布石となる双務契約の締結に手腕を発揮する。
村井 A&Mと業務契約は突然に起きたことではないんです。社長ジェリー・モスとは互い好きな音楽の話をするなど交流がありましたが、契約でキーマンになるのがエイブ・ソマー。彼がA&Mの顧問弁護士をしていたことが大きい。戦略という点では双務契約を結びました。
A&Mはスタッフが世界中にいるので、号令をかければすぐに動いてくれる。双務契約というのは、そちらのカタログを日本で本気で売るから、A&Mもアルファが良いとする日本の音楽を世界のルートで売ってほしいということです。
契約と同時期、細野君たちはYMOのレコーディングを開始し、ビジネスは僕で音楽は細野君という役割分担で動いていました。僕らとA&Mと信頼関係が深まる中でプロデューサーのトミー・リピューマが来日しYMOのステージを観て、「YMOをアメリカで売り出したい」と評価したのです。
急きょ僕らはアメリカでのレコーディングとアルバム発売、そしてライブをオファーし、2年連続で欧米ツアーを組んだ。ツアーを終えて帰国すると、日本でも大変な騒ぎになっていました。何百万枚売れたかは覚えていませんが、グローバルマーケットで実績を残したことは快挙だったと思っています。ただ僕を含めみんなにもう少し体力があれば、海外での成功をさらに大きくできたと思う。それが心残りですね。
——村井さんの作曲家50周年を記念するコンサートが12月に東京で行われることが決まった。コンサートのプレイリストにはかつての名曲が並んでいたが、例えば『翼をください』はジャズにアレンジされ、元々の曲の魅力に新たな輝きがあった。村井さんが今もアグレッシブに創作活動を行なうその奥には何があるのだろうか?
村井 朝起きたときから頭の中で音楽が鳴っていて、この曲はビッグバンドでやりたいとか、誰に歌ってもらおうとか、曲の選択やアレンジを考えるのが最高に楽しいですね。昔から変わらないのは、「西洋音楽の歴史的な文脈のなかで日本の音楽をどう考えるか?」、「どういうものをつくっていくのか?」ということで、20世紀はジャズ、ロックが誕生したけれど、そういうものが今後も生まれるのかどうか、生まれてくるとしたらどこから生まれてくるか。そういった背景にも興味がありますね。もちろん僕も落ち込む時はあります。でも明日のスケジュールに一つでも面白いこと、楽しいことが入っていれば大丈夫。ずっとそう心掛けています。
——今、音楽産業はインターネットの配信によってCDの売上げ減、また、かつてのレコードが注目されるなど音楽の価値観に新たな多様性が求められている。村井さんはこの変化をどのように考えているか?
村井 デジタル化やインターネットによる大変革期に、今までの延長線で考えると見通しが利かない。権利もタダ同然みたいになってきているから深刻です。では何に希望があるかというと、結局みんな戻っていくところは肌で感じることのできるライブだと思っています。僕は、「いい音楽をいい音で聴かせたい」。そのために何が必要か? 今はこのことを一番に考えています。
バナー写真=2015年9月27日、28日に、渋谷・Bunkamuraオーチャードホールで開催された村井邦彦の70歳を祝うコンサート「ALFA MUSHIC LIVE」。松任谷由実、YMO、ガロ、赤い鳥、サーカスが出演し、村井さんを囲んだ(撮影=三浦憲治、写真提供=ニッポン放送、ホットスタッフプロモーション)