外国人神主、ウィルチコ・フローリアン
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日本は世界の正倉院
——ウィルチコ・フローリアンさんは、幼い頃から日本の文化に興味があったそうですが、それはどうしてですか?
初めは他の国では見られない風景、建築、装束などに惹かれました。それらの一つ一つを調べていくと、すべてに物語があり、歴史があって面白かった。日本には、アジアのさまざまな文化の良いところが色濃く残っている気がします。「日本は世界の正倉院」とも言われているそうですが、その奈良の正倉院には1300年前の面白いものがたくさん、それも完全な状態で残されています。他の国ではあり得ないことです。
昔から日本人は、海を越えて入ってくる文化を珍しがっていたのでしょう。今でも、新しいモノが好きで、それを受け入れては、自分の国に合わせてアレンジしている。その中でも私が一番好きな例はビーフカレーです。カレーはインド発祥ですが、インドでビーフを材料にすることはあり得ません。でも、とてもカレーに合うし、おいしい。日本は、そういった日本人好みにアレンジした面白い作品にあふれています。
その原動力になっているのは、神道の精神だと思います。現在の神社の姿にしても、もともと日本にあったものはそんなに多くないはずです。御社殿(ごしゃでん)を建てる発想も、御神体という考え方も、仏教や密教といった海外から入ってきた考え方が大きく影響しています。神社に付き物ともいえる狛犬(こまいぬ)もやはり渡来してきたものです。しかし、それらをただコピーするのではなく、日本にしかない形に変化させ、新しいものを作ったのが面白いと思うのです。
神道は宗教ではない
——ウィルチコさんが魅了された日本文化の原動力となった、神道の精神とはどのようなものなのでしょう?
例えば、長野県の神社には、諏訪大社のように四隅に4本の柱が立っているところが非常に多い。また、奈良へ行けば朱の御社殿が目に付きますが、山を越えて三重へと行けば伊勢神宮のように白木造りの御社殿が多くなります。不思議ですよね。同じ神道であるなら、みんな同じように造ればいいはずなのに、まるで統一感が無いのです。
それはなぜなのか。神道が宗教ではないからだと思います。そもそも、日本に「宗教」という概念はなく、この言葉も明治時代に英語のreligionから作られたものなのです。religionという言葉の定義はメンバーシップのようなものであり、おそらく昔のヨーロッパ社会では何に属しているかで身分や民族を確認したのだと思います。
メンバーになるためには当然資格やルールがありますが、神道にはそういうものが何もない。入り口にある鳥居は、門のように閉めることができませんから、誰であっても、たとえ違う宗教の人でも受け入れるのです。要するにそういった意味では、「宗教」という概念が昔から日本には無かったことになります。その一番代表的な例は、奈良時代に仏教を受け入れたことです。religionという考えからすれば、受け入れて全て仏教にしてしまうか、一切受け入れないかしかないのです。「神仏混合」というのは、他の国ではあり得ない話です。
——よく言われることですが、日本は小さな島国だからこそ、みんなで仲良くするしかなかった。そして、いろいろな文化を受け入れてきた歴史があります。その源にあるのが神道の精神なのですね。
ヨーロッパでは国境とは人間が決めて作るものです。もっと面積が欲しくなれば他国へ攻めていくことになりますが、日本の場合、なかなかそうもいかない。
また、日本は自然災害が非常に多いながらも、豊かな土壌があり、四季折々の美しい自然もあります。だからこそ、この国の神様を一つにまとめるのが不可能だったのだと思います。なぜなら、それだと理にかなった話にはならないからです。その神を拝めば無事でいられるのかといったら、その5分後には大地震が来てしまい、みんなが亡くなってしまう可能性もなくはない。豊かな恵みある自然の中には、いろいろな神々の御働き(おはたらき)があって、それぞれを大切にしなければいけないのです。
ところが、砂漠では条件がまったく違います。豊かなところなどもともとないのです。そんな過酷な環境で暮らそうと思ったら、神様を一つにして、その神に選ばれた民族だとでも思わなければ生きていけないでしょう。
頼りになる神道の知恵
——神主を「天職」だとおっしゃっていますが、どうして神道を選ばれたのですか?
神社には無駄なものなど一つもありません。全てに必要性があって、物語があって、歴史があるのです。理にかなっている、奥の深い、素晴らしい世界だと思います。
ただし、外国人の神主はほとんどいないので、みなさんがどう思われるだろうか心配もしました。しかし、「外国人が神主になれないというのは、日本らしくない」とおっしゃってくれる先輩方が後押ししてくれました。
「神道は天地悠久の大道である」と言います。それは、いつまでも続く、限りの無い、大きな道だということです。それなのに外国人はダメだと言ってしまったら、限りができてしまう。受け入れないということは限界をつくってしまうことになるわけです。
現代社会において日本人は、その受け入れる力をもっと発揮していただきたいと思っています。残念ながら、今は受け入れることを「合わせる」というふうに悪く解釈しがちです。
——自分を無くし相手に「合わせる」のは、「自己主張できない日本人」というような解釈ですね。
この「合わせる」という解釈は、日本の良いところをだんだん薄くし、無くしてしまう危険性があるのではないでしょうか。仏教を受け入れた時も、決して全て仏教に合わせたわけではありません。アレンジして日本に合うようにしたわけです。
受け入れて、アレンジする。まさに神社がそうです。必ずしも、古い形をそのまま残さなければならないわけではなく、新しいものを受け入れ、少しでも良いものを作っていこうとしている。「昔から変わらない」と言いながらも、実は時代と共に大きく変わっているのです。では、いったい何が変わらないのか。それは「思い」だけなのです。
——変わらない「思い」とは、どのようなものなのでしょうか?
もともと日本人は非常に明るく、プラス思考なのです。
例えばキリスト教では、人は生まれた時から罪がくっついています。つまり最初から重い荷物を背負っているわけで、一生懸命頑張ることによって、少しづつ軽くしていくことになる。しかし、原罪ですから決して消えて無くなることはないのです。
ところが神道では、人はもともと綺麗(きれい)で明るく、清い状態だというのが根本的な考え方なのです。赤ちゃんが誰よりも神様に近い存在です。そして、生きることによって罪、穢(けが)れを犯していくことになります。ところが、はじまりの清浄な状態に戻れる術があり、それが「お祓(はら)い」です。背負ってしまった重い荷物を肩から下ろせる、というものすごく前向きで、明るい考え方なのです。
ビーフカレーを作ったり、仏教を受け入れたり、それはまさしく「お祓い」があったからだと思います。要するに、再び何もない清浄な状態に戻して、落ち着いた状態で話し合う。そうした上でこれとこれを受け入れて、さらに良い将来につなげていく、という考え方です。
神道は、人生における大切な知恵の塊であり、頼りになるものだと思います。大いに利用することで人生も楽しくなるし、辛い時にはそれなりの味わい方を学べて楽になれるのです。
八百万の神々の「思い」
——神道の知恵は、世界中で生かせるのでしょうか?
世界中を全部同じ色に染めたり、全部同じ考え方でやっていく「国際化」というのは不可能だと私は思います。それぞれの地域に、それぞれの自然、それぞれの風土があって、それは人間の体にものすごく影響を与えます。ですから、その土地に一番合う形というものが当然あるのです。土地が変われば、考え方も変わります。
やはりこれからは、相手のことを「認める」ということが大切だと思います。それは、相手の物差しに合わせるのではなく、「なるほど、そういう考え方もありますね」と心に留める。それだけでいいのです。否定する必要も、コピーする必要もありません。
それが神道の中でも非常に分かりやすく説かれています。八百万(やおよろず)の神々がいるのですから、簡単な正解不正解は無くなってしまう。正解がいっぱいあるのです。
例えば世界中を英語圏にしたなら、日本語の美しさはどこへ行ってしまうのでしょうか。日本には、日本にしかない、日本の誇りと思っていい文化が、いくらでもあるではありませんか。
——おっしゃる通りですね。今の日本人に対して、何かご意見はありますか。
日本が日本らしくあって欲しいという気持ちは、この仕事を続けるほど強くなっていく気がします。当然、日本人のみなさんにもそのように考えていただければ、それが一番良いと思っています。日本には、非常に大きな魅力がたくさんあるのですから、それらを認識し、ぜひ誇りを持っていただきたい。そして明るく続けていこう、という「思い」を持つことが非常に大事だと思います。それに少しでも私が貢献することができたなら、それが私の一生の使命と言いますか、務めだろうと考えています。
撮影=川本 聖哉
バナー写真:野邊野神社の祝詞殿にて、正装のウィルチコ・フローリアンさん。