危機に対する政治--東日本大震災後の英国政府の対応

政治・外交

イギリス外交史を専門とする細谷雄一慶應義塾大学教授は、大震災後のイギリス政府の対応は冷静かつ的確であり、その要因は非常事態に備えた政治体制や法体系にあると指摘する。日本では、そういったものの不備が初動対応の非効率性につながったという。

良い影響与えた「ワースト・ケース・シナリオ」

2011年3月11日、未曾有の大震災が日本を襲った。東北地方太平洋岸は前例のない壊滅的な打撃を受け、短い時間に多くの人々が命を失った。第二次世界大戦後、最悪の災害であった。同時に、首都圏に住む人々にとっても、次第に不安が高まっていった。福島第一原子力発電所で原子炉の燃料棒の融解(溶融)が起きたことで、大量の放射能が空気中に放出された。果たしてわれわれは、そのまま東京に残ることが出来るのか。東京はこれまで同様に、世界的な大都市としての機能を維持できるのか。日本はこれからどうなるのか。

日本政府は当初、福島第一原発から20キロ圏内に居住する者に退去勧告を出し、その後に20キロから30キロ圏内に住む者にも自主的退去を勧告した。問題は、果たしてそれを越えた地域、とりわけ首都圏にまで放射能の危険性が及ぶか否かであった。海外メディアの一部が、放射能の危機を明らかに誇張して報道する中で、最も冷静かつ的確にこの危機に対応した外国政府の一つが、イギリス政府であった。

イギリス政府は、3月15日に保健省(Department of Health)の中で、緊急時科学諮問グループ会合(Scientific Advisory Group in Emergencies; SAGE)を開催し、政府内外の専門家が集まり福島第1原発の危機への対応について協議した。政府の首席科学顧問(Chief Scientific Advisor)であるサー・ジョン・ベディントン教授(Sir John Beddington, Imperial College London)が科学的見地からの説明を行い、その結果として日本が出した退去勧告が科学的に妥当なものであること、そして東京在住の者は「ワースト・ケース・シナリオ」の場合であっても、乳幼児や妊婦を含めて深刻な危険性は起こらないであろうことを論じた。

このイギリス政府のベディントン教授の説明のトランスクリプトが駐日イギリス大使館のホームページに全文掲載され、日本国内においてブログやツィッターで紹介されたことで幅広く読まれていった。そしてこの説明を根拠に、多くの者が東京から退避する必要性がないと考え、通常の経済活動を行えることを確信した。ベディントン教授の説明は、日本政府の対応と同様の内容であるが、日本政府が「ワースト・ケース・シナリオ」を想定した科学的かつ論理的な詳細な説明を行っていないことで、多くの人がこのイギリス政府の対応を参照したのであろう。この対応は、日本国内への影響のみならず、イギリスのジャーナリストたちにも思考の材料を与えたことであろう。それは間違いなく良い影響を与えたと思う。

命を救うため政治ができることは多い

イギリス政府がこのような迅速な対応が出来たことには理由がある。2001年にブレア政権のイギリスは、政府内に市民非常事態局(Civil Contingencies Secretariat)を設置して、自然災害やテロリズムなどに対応するための省庁横断的な組織を確立した。また、それまでの煩雑な法体系を整理して、2004年には非常事態法(Civil Contingencies Act 2004)を制定した。政治体制としても、法体系としても、イギリス政府は多様な緊急事態に迅速に対応できる制度を整備していたのである。そこでは、新型インフルエンザ、洪水、テロリズムなどの16のカテゴリーの大規模災害を想定、100名を超える独自のスタッフを備え、専門知識を前提に政府の中核で対応を整備している。これに匹敵する規模と予算、制度や法体系を備えたものは、日本には存在しない。

そのような政治体制や法体系の不備が、今回の大規模災害の初動対応の非効率性に結びついた。今回の災害は、大震災、津波、原発事故と「複合事態」としての危機であった。首相や官房長官など、官邸の指導者やスタッフの数は限られている。「政治主導」でそれらの人々が、複数の深刻な事態に同時に対応するのは困難だ。初動では、東北地方での救援活動のために10万人の自衛隊員を派遣した決断は早かったが、他方で同時並行的に政府として原発事故に迅速に対応することは出来なかった。民間の東京電力、経済産業省管轄下の原子力安全・保安院、そして首相官邸の狭間で、連携が十分に円滑には進まなかった。地方自治体と中央政府との連携も、ぎこちなさが目立った。このような複合的な緊急事態に対して、政治態勢の準備が必ずしも十分だったとはいえない。

政治は人の命を救うことも奪うことも出来る。人の命を救うために、政治が出来ることは多くある。今回の菅政権の対応は、16年前の阪神大震災と比較してはるかに円滑であった側面が大きいが、原発事故という未曾有の危機に対しては動揺と混乱が目立っていた。原発に事故がないことはない。想定するのが望ましくないとしても、大規模な事故で生じる放射能汚染の深刻さは、より深く理解するべきであった。「考えられないことを考える(to think unthinkable)」こともまた政治の任務である。この教訓から、日本政府が緊急事態への政治体制をより充実したものへと発展させることを願っている。

(2011年4月1日記す)

東日本大震災