ニッポンの異国料理を訪ねて:さまざまなルーツが溶け合う街、鶴見・仲通商店街「ユリショップ」で味わうブラジル定食

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日本の日常にすっかり溶け込んだ異国の料理店。だが、そもそも彼らはなぜ、極東の島国で商いをしているのか――。川崎市と接する横浜市鶴見区、港湾エリアからもほど近い一角に、南米と沖縄が混在する商店街がある。中でもにぎやかなブラジル料理店「ユリショップ」を訪ねてみると、沖縄―ブラジル―鶴見を結ぶ、日系移民の歴史を知ることになった。

ブラジル、ボリビア、沖縄が混在する街

「自分はいま、どこにいるのだろう?」 

そんな不思議な感覚に包まれる街がある。 

横浜市東部の鶴見がそうだ。

JRや京急の駅から歩いて鶴見川を越え、湾岸方面へ20分ほど。仲通商店街には沖縄料理や韓国焼肉と並んで、なぜか南米ブラジルやボリビアの店が立ち、その雑多な光景に目を奪われる。

夕暮れ時の仲通商店街。「ユリショップ」のようなブラジル料理店のほか、ボリビア料理、沖縄料理の店が点在する 写真=渕貴之
夕暮れ時の仲通商店街。「ユリショップ」のようなブラジル料理店のほか、ボリビア料理、沖縄料理の店が点在する 写真=渕貴之

好奇心に駆られて夕食どき、ブラジル国旗の看板が目を引く「ユリショップ」に飛び込むと、思わぬ展開となった。女将・小橋川百合(こはしかわ・ゆり)さんの一代記を聞くことができたのだ。 

ユリさんは、ブラジル最大の都市サンパウロに生まれ育った日系2世。1989年、いわゆる出稼ぎとして日本の地を踏んだ。 

当時の日本はバブルの真っ只中。仕事には困らなかった。 

「最初は群馬のお菓子工場。その後は静岡や横浜の自動車工場でたくさん働いたよ」 

日本での暮らしに慣れ、ブラジルから子どもや両親を呼び寄せたユリさんは、やがて平日は工場で、週末は鶴見でアルバイトと、休みなく働き始める。 

すでにブラジルをはじめ、南米ルーツの人々が数多く暮らしていた鶴見は、ユリさんにとって居心地のいい場所となった。常連として通った小さな店を譲られたことから、この地で自分の店を始めることになる。 

「その店の名が“ロジーニャ・ユリ”。ブラジルの物を売る店でね、たくさんお客さんが来てくれたよ」 

ロジーニャというのは、ポルトガル語で「小さな店」という意味。もともと商売が好きだったユリさんは、このロジーニャを手塩にかけて育てていく。

2000年には2階建ての店舗に移転。1階で食料品や雑貨を売り、2階でブラジル人やペルー人向けのレンタルビデオを始めると、これが当たり、ユリさんはさらに店を大きくする。食品、雑貨、レンタルビデオに加えて、洋服も売り始めた。 

そして15年11月、ユリさんは4度目の移転で、現在のユリショップをオープン。店は奥行きが広く、入り口から半分はブラジルの食料品や雑貨が並び、奥が食堂になっている。

食料品から日用品まで、さまざまな「モノ」が雑多に陳列される店内。奥は食堂スペース 写真=渕貴之
食料品から日用品まで、さまざまな「モノ」が雑多に陳列される店内。奥は食堂スペース 写真=渕貴之

私は地震よりも強盗が怖い

来日から30余年、店は順調に大きくなったが、その間幾度も激しい波がユリさんを襲った。 

90年代前半にはバブルが崩壊し、08年にはリーマンショック、11年には東日本大震災と社会が混迷。とりわけ震災の衝撃は大きく、南米の仲間たちは相次ぐ余震に耐えられず、次々と祖国へと帰っていった。 

それでもユリさんは、鶴見にとどまった。 

「なぜって、ブラジルに帰ったら地震の心配はいらないけど、強盗が出るから。私は地震よりも強盗が怖い。だから日本に残ったの」 

ユリさん一家は、すでに鶴見に深く根を張っていた。 

ブラジルから呼び寄せた息子は日本の教育を修了して仕事に就き、3人の子どもをもうけた。ユリさん最愛の孫たちだ。 

飲食業を直撃する新型コロナは頭が痛いが、祖国に帰るわけにはいかない。なにしろブラジルは、アメリカ、インドに次ぐ一大感染地。治安も悪化している。 

そしてなにより、ユリショップが消えたら困る仲間がたくさんいる。 

「ワンプレートにてんこ盛り」がブラジル流

夕暮れどきのユリショップには、仕事上がりのブラジル人が次々とやってきて、母国の言葉で談笑していた。彼らにとって店は憩いの場であり、大切な情報交換の場。そしてなにより、この店でしか楽しめない味がある。

ユリショップのメニューは、すべてがワンプレート。ひとつの皿に、肉とライスと野菜が盛りつけられている。これに「フェイジョン」と呼ばれる豆のスープをかけまわし、混ぜ合わせながらいただくのがブラジル流だ。

ご飯の上に乗るのは「フェイジョン」。ブラジルを象徴する家庭料理で、混ぜて食べるのが現地流 写真=渕貴之
ご飯の上に乗るのは「フェイジョン」。ブラジルを象徴する家庭料理で、混ぜて食べるのが現地流 写真=渕貴之

私が注文したのは、人気メニュー「牛ステーキのタマネギ添え」。フェイジョンの適度な塩気とタマネギの甘辛さが絶妙に絡み合い、肉とライスが止まらない。

「あー、おいしかった!」

ワンプレートをきれいに平らげた私を見て、ユリさんはうれしそうに言った。

「このタマネギは、しょうゆとニンニクで漬けてるの。サンパウロ時代から食べてきた、日本の味なのよね」

どうりで。日系人だけでなく、ブラジル好きの日本人に人気があるのもうなずける。

一家のルーツは沖縄

ユリさん一家の過去の歩みを尋ねると、鶴見の多様性につながる興味深い事実が分かってきた。 

日系人ユリさんのルーツは沖縄県西原町。1935年、彼女の祖父母は沖縄からブラジルに移民した。生後4カ月で海を渡った彼女の父は、長じて農場、トラック、タクシーと職を変えながら、ユリさんたち4人の子どもを育て上げた。 

一家が暮らしたのは、サンパウロ西部の「ビラ・カホン」。沖縄ルーツの日系人が数多く暮らすこの地では、沖縄祭りが盛大に開催され、故郷の歌や踊りが披露される。 

祭りのたびに、ユリさん一家はブラジルの国民的スナック「パステウ」の屋台を出し、それは飛ぶように売れた。小麦粉の皮で挽き肉やチーズなど、さまざまな具材を包んで揚げる懐かしの味は、ユリショップで味わうことができる。

「カルネ(挽き肉)のパステウ」(300円)は、屋台時代から変わらないユリさん一家ならではの味 写真=渕貴之
「カルネ(挽き肉)のパステウ」(300円)は、屋台時代から変わらないユリさん一家ならではの味 写真=渕貴之

ユリさんが懐かしそうに振り返る。 

「ブラジルで育った私はポルトガル語ばかり、日本語はあまり話さなかったね。家庭で父と母が話していた日本語は、どうやら沖縄方言だったみたい。祖父母が沖縄方言をしゃべっていたから」 

ビラ・カホンでは、沖縄でもあまり耳にしなくなった島言葉が聞けるという。  

ビラ・カホンだけではない。南米では多くの地に、沖縄文化が息づいている。 

中でも興味深いのが、ボリビア第2の都市サンタクルスに近い「コロニア・オキナワ」。その名の通り、沖縄からの移民が密林を切り開いた集落だ。 

開拓は飢えと病と水害との戦いで、土地を得てもブラジルやアルゼンチンに去っていった人は少なくなかったそうだ。コロニア・オキナワを去った人々には、同郷沖縄の人たちがいるサンパウロ、ビラ・カホンへ移り住んだ人もいたという。 

沖縄からブラジルやボリビアへ移住した人々がいる一方、京浜工業地帯の中核として発展した鶴見の工業地帯には、沖縄や朝鮮半島からの労働者が戦前から数多く暮らしていた。 

そこに80年代から、南米移民が増えていく。バブル景気の労働者不足を緩和するため、出入国管理法が改正され、日本にルーツを持つ人々に門戸が開かれた。ユリさんも、そのひとりだ。 

つまり鶴見には、沖縄からやって来た人、沖縄から南米を経由してやって来た人が暮らしている。 南米系の人々は07年あたりをピークに減少しているが、それでも1600人前後いるという。 

来日して32年目のユリさん。「日本語は苦手」と言いながら、取材の会話にはなんの不自由もなかった 写真=渕貴之
来日して32年目のユリさん。「日本語は苦手」と言いながら、取材の会話にはなんの不自由もなかった 写真=渕貴之

移民を支える鶴見ならではの仕事

鶴見では、南米からの移民の多くが就く仕事がある。電気工事士だ。 

80年代、沖縄系電気設備業者が南米からの労働者を雇い始めたことで、ビラ・カホンの日系人の間に、「鶴見に行けば仕事がある」「同郷の仲間と一緒に働ける」という機運が高まった。 

以来、ブラジルやボリビアから鶴見に移住して、電気工事士になるという道が開かれた。ユリさんの息子さんも、そのひとりだ。 

鶴見では、外国人を中心とした助けが必要な人々への支援を目的としたNPO法人「ABCジャパン」が活動しており、コロナ禍を受けて食糧支援などを行なっている。そんな彼らの多彩な活動のひとつに「第2種電気工事士試験対策講座」がある。 

同団体の渡辺裕美子さんが言う。 

「電気工事には国家資格がないとできない工事もあり、資格の有無で待遇も大きく変わるようです。でも試験は非常に難しく、合格率は4割ほど。日本語がネイティブではない南米の人々には、かなりハードルが高い。そこで私たちは講座を開いて、彼らの資格取得をサポートするようになりました。また漢字だけでは難しすぎるので、試験内容にフリガナをふってもらうように働きかけました」 

やがて、試験にはフリガナがふられるようになり、南米の人々を喜ばせた。

仕事だけではない。地域の行事でも、沖縄と南米の人々が触れ合う機会があるようだ。 

仲通商店街には沖縄の物がなんでもそろう「おきなわ物産センター」があり、同じ建物内の「沖鶴会館」では、エイサーや三味線、踊りの教室などが盛んに行なわれている。その参加者には、南米ルーツの人もいるという。 

「あ、そうそう」と、ユリさんがうれしそうに付け加えた。 

「ウチの孫もね、三味線をやってるのよ」 

沖縄に生まれた人々が、ブラジルへ、ボリビアへと渡り、長い歳月と世代を超えて新天地、鶴見に根を下ろす。すると、さまざまな色が溶け合う街に新しい色が加わって、私たちの社会は少しずつ変容していく。混沌のように見えるそれは、実は成熟にほかならない。

たくましく人生を切り開き、母国に新たな文化を持ち込んだ人々の心の故郷。それがユリショップなのだ。

ブラジル料理「ユリショップ」 写真=渕貴之  神奈川県横浜市鶴見区仲通2−60−15 電話:045−504−7035 営業時間:12時〜22時 無休 JR鶴見駅から徒歩20分、路線バスもあり
ブラジル料理「ユリショップ」 写真=渕貴之
神奈川県横浜市鶴見区仲通2−60−15 電話:045−504−7035 営業時間:12時〜22時 無休 JR鶴見駅から徒歩20分、路線バスもあり

バナー写真:『ユリショップ』の一番人気メニュー「牛ステーキとタマネギ添え」(1200円)。しょうゆ味が日本人の味覚にもなじむ  写真=渕貴之

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