『風立ちぬ』から『君たちはどう生きるか』へ: 宮崎駿と盟友・大塚康生の58年

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アニメーション映画監督宮崎駿氏は2021年1月で80歳、傘寿を迎えた。映画『風立ちぬ』完成後の2013年9月、宮崎監督は長編映画制作からの引退会見を行なったものの、2017年に撤回。今は新作長編映画『君たちはどう生きるか』の制作に取り組んでいる。長編アニメーションは集団の分業で制作される。先頭で指揮をしながら自らも徹底的に描いて修正する宮崎監督の演出スタイルは、十数人分の労働を兼務するようなもので、世界的にも極めて異例だ。体力も精神も限界を超えるような過酷な制作現場に、老境を迎えてあえて戻った理由は何なのか。宮崎監督作品研究の第一人者である映像研究家の叶精二氏が『君たちはどう生きるか』に込めた思いを探る。

宮崎作品を支えてきた主力スタッフ達の相次ぐ訃報

2016年11月、宮崎駿監督が引退宣言を覆して新作長編に取り組む準備をしていることが報じられた。翌17年、新作映画『君たちはどう生きるか』の制作開始が伝えられ、以来4年が経過した。いまだ完成の報告はなく、公開は23年とも伝えられている。

前作『風立ちぬ』が公開されたのは13年7月。以降、今日までの8年間に、宮崎監督の作品を支えて来た数多くの主力スタッフが亡くなった。15年8月にはアニメーターの篠原征子さん、16年5月にはアニメーターの二木真希子さん、同年10月には色彩設計の保田道世さん、18年4月には長年共に作品を制作して来た高畑勲監督が死去した。

そして21年3月15日、アニメーター・作画監督の大塚康生さんが89歳で急逝した。宮崎監督の10歳年上の大塚さんは、この7月の誕生日で90歳の卒寿を迎えるはずであった。大塚さんは、宮崎監督が東映動画(現・東映アニメーション)の新人時代に指導を受けた恩師であり、労働組合の同志であり、長年コンビを組んだ盟友でもあった。

筆者は約30年間、大塚さんと交流を持たせていただき、宮崎監督と大塚さんとの関わりについて聞き取りと記録を続けてきた。以下、その一端を記したい。

「アニメーションの入口を教えてくれた人」 

宮崎監督はかつて大塚さんについて次のように語っていた。

「アニメーションの面白さを教えてくれた人、アニメーターの眼でものを見始める──その入口を教えてくれた人」(DVD『大塚康生の動かす喜び』2004年)

1965年、初めて長編映画の作画監督に任命された大塚さんは、無名の新人だった高畑勲さんを演出に指名。上司の反対を押し切って実現させてしまう。さらに新人動画に過ぎなかった宮崎さんのメインスタッフ(場面設計・原画)への昇格を認め、高畑・宮崎のコンビ結成を後押しする役割を担った。奥山玲子さん、小田部羊一さんら他のスタッフも異例の人事を受け入れ、それぞれが団結して作品制作を担ったのも、大塚さんの人柄とリーダーシップによるところが大きかったという。

制作は労使紛争をはらんで遅れに遅れ、3年後に映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』(68年)として完成した。しかし、興行成績は振るわず、多くのスタッフが降格処分となった。69年、大塚さんは「Aプロダクション(現・シンエイ動画)」へ移籍。2年後にテレビシリーズ『長くつ下のピッピ』を制作すべく、高畑・宮崎・小田部の三氏もAプロへ。『ピッピ』の企画は頓挫したが、4名は中編映画『パンダコパンダ』(72年)で再結集して作品制作に臨んだ。

その後、高畑・宮崎・小田部の三氏はテレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』(74年)を制作するためにズイヨー映像へ移籍したが、大塚さんはAプロに残った。実は、『ピッピ』や『ハイジ』の企画を高畑監督に打診したのは大塚さんだったという。

高畑勲監督は以下のように記している。

「常にいっしょに歩むわけではけっしてなかったのに、私の転機には必ず大塚さんが現れて、私を別の方向に誘うのです。私がいちばんお世話になった人、それが大塚さんです」(高畑勲『人生の兄貴分』83年刊大塚康生著『作画汗まみれ』初版に掲載)

高畑監督と行動を共にした宮崎監督も同じ思いであったと推測する。

コンビで演出スタイルを確立した『未来少年コナン』

1977年、テレビシリーズ『未来少年コナン』(78年放送)を初演出することになった宮崎監督は、大塚さんを作画監督に招くことを条件として提示。同作品の制作は日本アニメーションであったが、大塚さんは当時シンエイ動画の役員を務めていた。ライバル社への出向に反対の声が挙がったが、大塚さんは「宮さん(宮崎監督のニックネーム)を支えたい」と譲らず、全26話の作画監督を務め上げた。高畑監督の『太陽の王子』と同様、宮崎監督のデビュー作も大塚さんの尽力抜きには語れない。

『コナン』を起点とする宮崎演出の最大の特徴に、奥行きのある立体的空間設計と臨場感、ダイナミックなアクションやエフェクト(特に空中戦や巨大生物との格闘)が挙げられる。それらは東映動画の各長編で大塚さんが得意とした場面であり作画技法である。宮崎監督は大塚さんとコンビを組み、その作画技術を吸収しつつ洗練・進化させ、自らの演出スタイルを築く糧としていった。

『未来少年コナン』@NIPPON ANIMATION CO.,LTD.
『未来少年コナン』@NIPPON ANIMATION CO.,LTD.

『コナン』を終えた大塚さんは、シンエイには戻らず、「テレコム・アニメーションフィルム」へ移籍。今度は大塚さんが宮崎監督に声をかけ、初監督長編映画『ルパン三世 カリオストロの城』(79年)が生まれた。この作品でも大塚さんは作画監督を担った。続く映画『じゃりン子チエ』(81年)には、高畑監督と小田部羊一さんが参加した。大塚さんは引き続き作画監督を務めた。

こうした流れが85年の「スタジオジブリ」創設を準備したと言える。しかし、大塚さんはジブリには参加することなく、晩年までテレコムに残って指導にあたり、多くの才能あふれる後進を育てた。

趣味と妄想を綴った連載『宮崎駿の雑想ノート』

宮崎監督の最後の長編となるはずだった映画『風立ちぬ』は、模型雑誌である月刊「モデルグラフィックス」(大日本絵画)に2009年から10年まで連載された同名の中編漫画が原作である。サブタイトルとして「妄想カムバック」と記されている。何からの「カムバック」だったのか。

宮崎監督は1970年代から模型雑誌月刊「ホビージャパン」にイラストを寄稿。81年には「東京ムービー新社」(現トムス・エンタテインメント)のファン向け会報に「ぼくのスクラップ」と題した兵器や飛行機についての蘊蓄(うんちく)を綴ったイラストとエッセイを描いていた。その趣向を発展させ「モデルグラフィックス」創刊号(84年11月号)から『宮崎駿の雑想ノート』の連載を開始した(途中から漫画化)。機械や兵器だけでなく、それを扱う人物や軍隊についても空想を広げた。

しかし、翌85年にはスタジオジブリが創設され、映画『天空の城ラピュタ』(86年)の制作が開始されたために連載は中断。以降も『となりのトトロ』(88年)『魔女の宅急便』(89年)と映画制作の度に連載は長期中断を挟みながら、90年まで続いた。映画『紅の豚』(92年)は『雑想ノート』連載第14〜16回に「飛行艇時代」と題して描き下ろされた中編漫画を原作として制作されたものだった。

『紅の豚』 © 1992 Studio Ghibli・NN
『紅の豚』 © 1992 Studio Ghibli・NN

92年の単行本化の際に描き下ろし作品『豚の虎』が追加され、94年にその続編『ハンスの帰還』が連載された。98年、『妄想ノート』と改題され、連載『泥まみれの虎』が翌年まで6回にわたって連載。第二次大戦中にドイツ国防軍兵士を務めたオットー・カリウスの戦車隊を虚実を交えて描いた中編であった。

2009年の『風立ちぬ』は、10年振りの連載再開となったため「カムバック」と銘打たれていた。実在の日本人設計技師・堀越二郎とイタリア人設計技師ジャンニ・カプローニを登場させ、史実にはない二人の交流を描いた展開など、まさに全編「妄想」である点は『泥まみれの虎』と共通している。その後現在まで連載復活はなく、『風立ちぬ』は『雑想ノート』の終着点となっている。

実は、こうした宮崎監督の模型誌への寄稿は、元々大塚さんが宮崎監督に勧めたものであった。

『風立ちぬ』の機関車作画に助言

大塚さんは1971年から「ホビージャパン」に戦車や軍用車両研究の連載を持っていた。大塚さんは日本有数の軍用車両研究家で、田宮模型(現タミヤ)の商品企画やデザインのアドバイザーを務めており、73年には模型会社「MAX模型」から請われて企画に参加したこともあった(翌74年に倒産)。同好の士である宮崎監督を「ホビージャパン」編集部に紹介したのは当然の流れであった。

84年、「モデルグラフィックス」創刊時に「大塚康生のおもちゃ箱」の連載を打診された大塚さんは、「趣味の世界を思う存分描いて欲しい」と宮崎監督を誘った。こうして『雑想ノート』の連載が実現した。

また、映画『風の谷のナウシカ』は、宮崎監督自身によって82年から月刊「アニメージュ」(徳間書店)に連載された同名漫画が原作だが、その連載開始にも大塚さんの勧めがあったと聞く。同誌編集部の鈴木敏夫氏(当時、現スタジオジブリ代表取締役プロデューサー)に連載を依頼された大塚さんは、同誌に半生の回顧録『作画汗まみれ』を連載していた。連載最終回掲載誌(82年2月号)に新連載として開始された作品が漫画『風の谷のナウシカ』であった。

『風の谷のナウシカ』 © 1984 Studio Ghibli・H
『風の谷のナウシカ』 © 1984 Studio Ghibli・H

2012年、大塚さんは宮崎監督からの依頼を受けて、映画『風立ちぬ』の制作中のスタジオジブリを訪れた。作中に度々登場する蒸気機関車の作画について助言を求められたためだ。大塚さんは、機関車の駆動システム「ワルシャート式弁装置」について詳細に解説したという。その直後に大塚さんとお会いした際に「宮さんは機関車には愛着がないんだよ。もっぱら飛行機や戦車だからね」と笑って語っていたことを思い出す。

大塚さんは中学生時代(戦中)に機関車に夢中になり、山口県小郡町(現山口市)の機関庫に通って精密なスケッチ画を大量に描いていた。機関士と交流し、運転作業から駆動系のシステムまで徹底的に観察した経験を持つ。その結果、「作動原理に基づいて絵を描く」というアニメーターの素養を無意識に鍛えることになった。大塚さんは技術を論理的、分析的かつ平明に説き、実に多くの才能ある後進を育て上げた。その基礎は幼い頃に機関車から学んでいた。

二郎が名古屋へ向かうために乗車した「9600形」は大塚さんが最も愛した機関車だ。ジブリでの機関車作画のレクチャーは、言わば原点回帰の置き土産であった。

『ルパン三世』の愛車フィアット500(元々大塚さんの愛車であったことから登場)のプラモデルを組立て中の大塚康生さん。(2018年9月 撮影/叶 精二)
『ルパン三世』の愛車フィアット500(もともと大塚さんの愛車であったことから登場)のプラモデルを組立て中の大塚康生さん。(2018年9月 撮影/叶 精二)

「生きねばならん」から『どう生きるか』へ

『風立ちぬ』のラストシーンで、主人公・堀越二郎は日本の敗戦の現実と自ら生み出した戦闘機たちの累々たる残骸と対峙する。彼の地で待っていた最愛の妻・菜穂子は「生きて、生きて」と語りかけて昇天する。二郎の師・カプローニは語る。

「君は生きねばならん。その前に寄ってかないか。いいワインがあるんだ」

『風立ちぬ』© 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK
『風立ちぬ』© 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK

草むらに消えていく二人のラストカットの原画を担当されたのは二木真希子さんであった。二木さんは公開の2年後に亡くなった。

2016年5月、筆者が最後に保田道世さんに取材をさせていただいた時のことだ。前日に宮崎監督から「短編『毛虫のボロ』(18年)の制作が上手くいかない」と相談の電話があったという。保田さんが「いっそのこと長編を作ったら」と進言すると、すかさず宮崎監督から「一緒にやろう」と誘いが。

東映動画時代からの付き合いであった保田さんは『崖の上のポニョ』(08年)の後に第一線から退かれたものの、宮崎監督たっての希望で『風立ちぬ』の色彩設計の仕事をやり遂げていた。保田さんは「私はもう現場には立てないから、若い人とやればいい」と答えたそうだ。取材の5ヶ月後、保田さんは亡くなった。宮崎監督の長編復帰の可能性が報じられたのは、保田さんの訃報から1ヶ月後のことだった。

偶然なのか必然なのか、今にして思えば『風立ちぬ』のラストシーンは8年間の宮崎監督の創作活動そのものを予見したようにも思える。

仮に堀越二郎を宮崎監督の分身と見るならば、カプローニは様々な恩師や先輩のイメージが投影された人物のようにも思われる。それは森康二さん(東映動画の先輩)であり、大塚康生さんであり、高畑勲監督であったのかも知れない。

映画『風立ちぬ』は、「創造的な10年」を終えても、国が滅んでも、最愛の人を喪っても、「生きねばならん」と告げて終わった。作中で引用された「風立ちぬ、いざ生きめやも(風が立った、生きねばならぬ)」はポール・ヴァレリーの詩の一説を堀辰雄が訳したものだ。では、どうやって生きるのか。

映画『君たちはどう生きるか』には、タイトル通りその問いに答えようとした苦闘と模索がつまっているのではないだろうか。それは、相次ぐ災害や未曾有のコロナ禍に見舞われている私たちにとって、一層切実な問いである。映画の完成を心して待ちたい。

バナー写真:宮崎駿監督(左)と大塚康生さん(1971年頃、Aプロダクションで撮影されたもの)写真/南 正時

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