若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:「戒厳令は死に体に」——民主進歩党の誕生で台湾政治に新しい風

政治・外交

1986年3月、筆者は日本国香港総領事館の専門調査員を辞して家族とともに帰国し、4月から東京大学教養学部外国語学科の助教授に採用された。それから2010年に早稲田大学政治経済学術院に移るまでここ通称東大駒場で教鞭を執ることになった。日本の論壇に台湾問題を提起するなかで、台湾で結党されたばかりの民進党から訪日団を迎えることになった。

香港から帰国、東大教養学部助教授になる

東大駒場では、一、二年生には中国語を、教養学科アジア分科に進学した三、四年生には「アジアの政治」といった科目名で台湾政治論を講義した。「台湾政治論」といっても、もちろん出来上がったものがあったわけではない、講義しながら自分のそれを作り上げていくというのが実情だった。

翌年からは、大学院総合文化研究科地域文化研究専攻の担当にもしていただいて、以後台湾研究を志す台湾人留学生の指導にあたることになった。しばらくして少数ながら日本人の学生もやってきた。最初の指導院生は台湾先住民族タイヤル族の青年林文正さんだった。これが当時の法律で義務付けられていた漢人式の公式の名前で、民族名はイバン・ユカンだと彼は名乗った。その後1990年代の法改正で民族名を公式の名前として届けてよいことになり、彼は今、Iban Nokan(漢字表記、伊凡・諾幹)と名乗っている。先住民族の名前ほど彼らが「諸帝国の周縁」を生き抜いてきたことを物語るものはない。Iban Nokanさんはその後、陳水扁政権で総統指名・立法院承認で任命される考試院の委員を、蔡英文政権(第一次)で行政院政務顧問を務めるほか、各種先住民族政策立案の諮問機関などで活躍している。

当時は政治的民主化の進展とともに台湾では学術の自由の情況も急速に改善して、台湾研究には一種の歴史的熱気が湧き上がっていた。今振り返れば、私は学生ととともにその熱気の中にいた。当時東大で台湾研究をしている人は、台湾文学の動向に着目し始めていた文学部中国文学科の藤井省三さんだけだったし、文学部は本郷キャンパスにあったので、東大駒場キャンパスでは私一人だった。その後もずっとそうで、私が離任したらゼロになった。

そんなわけだから、私の大学院ゼミは周囲の同僚からみたらちょっと変な熱気のあるグループだったのかもしれない。ただ、ちゃんと語学さえ教えていれば、後は好きにやってよいというモードの職場だったのはたいへんありがたかった。

「死に体」となった戒厳令と民進党の結成

前にも触れたように、私は香港誌の『九十年代』(月刊)を購読するとともに、80年代初めからいわゆる「党外雑誌」の『八十年代』系列(康寧祥系)と『前進』系列(林正杰台北市議会議員系)を購読していた。「系列」というのは長期戒厳令下の検閲で雑誌がしばしば発禁処分に遭うので、一つが発禁になっても次が出せるように別の名称の雑誌を当局に登録しておいたからである。これを「スペアタイヤ(備胎)」と称した。

助教授になって初めての夏休みも終わりに近づく頃自宅に届いた『前進』系列の『前進廣場』のページをめくって驚いた。林正杰の「収檻送別」活動の様子が、写真とともに大々的に報道されていた。『前進』主宰者の林正杰は、同誌の報道が国民党高官を誹謗(ひぼう)したとの疑いで懲役1年半の有罪判決を受けたが、林は控訴しないで入獄することになり、その「送別会」を台北の公園で行うと、支持の民衆が街頭に溢れ自然発生的なデモとなってしまった。そして同じ事が、西部平原の各都市で12日間にわたって繰り広げられた。交通整理の警官は出動していたが、当局はこれを取り締まることができなかった。『前進廣場』に掲載されていた写真では、林正杰が何とパトカーの屋根に登ってハンドマイクで演説している様子が写っていた。「戒厳令は死に体になっている」。まさにこの言葉でその写真の光景を受け止めたことを今でも鮮明に覚えている。

(出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、202頁 )(筆者提供)
(出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、202頁 )(筆者提供)

野党結成まであと一歩だった。後で分かったことだが、「十人小組」と呼ばれるようになるグループがすでに密かに新党結成準備を始めていた。この年の12月には立法委員と国民大会代表の「増加定員選挙」が行われる予定であった。「党外」は再び「選挙後援会」を組織し、その候補推薦大会を台北の圓山大飯店で開催したが、その最中に政党結成準備に当たっていた人々が突然「民主進歩党」(民進党、the Democratic Progressive Party: DPP)の結成を提案し、異議無く採択された。林正杰が支持者に見送られて入獄した次の日のことであった。

確かに戒厳令は「死に体」だった。蒋経国は結局新党の存在を容認するしかなく、まもなく関連法令を定めて新規政党結成を制限付きで合法化し、戒厳令も解除するという方針を打ち出した。権威主義体制のいわゆる「ブレークスルー」が台湾でも始まった。戒厳令体制を重要な支えの一つとする国民党一党支配体制に風穴が開いたのである。生まれたばかりの民進党は、準合法政党として86年末の「増加定員国会選挙」に臨んで国内デビューを果たした。

もちろん私も三度目の「選挙見物」に出かけた。1983年に意外な落選に見舞われた康寧祥は立法委員に返り咲いた。台北市議会議員だった旧知の謝長廷は立法院進出をはかったが果たせなかった。一説に「最後の立候補」を訴えた康寧祥に票が集まりすぎたのが落選の一因という。これが中選挙区制において結成したばかりでしっかりした政党組織を持てない「党外」の苦しいところであったと言えよう。

国民党一党支配体制下に野党が結成されたということで日本のマスコミも注目したらしく、帰国すると早速、週刊『朝日ジャーナル』で現代中国研究家の加々美光行氏、共同通信の坂井臣之助氏との鼎談(ていだん)に呼ばれた。その時の私の発言の一部が当時の同誌編集長筑紫哲也氏の目にとまったらしく、掲載号目次下の「今週の紙面から」欄に日本の台湾観に関して「いわゆる経済合作の対象、観光の対象を除いた台湾をどう見るか。そこのレベルの交流が少ない。そのアンバランスはグロテスクでさえあるということを何回も台湾へ行って感じます」との私の発言が引かれていた。

民進党の初の「政党外交」

台湾の権威主義体制のブレークスルーを日本政府や外務省が当時どう見ていたのか、私には知る由もないが、アメリカの動きは速かった。民主党系の国際関係民主協会(the National Democratic Institute for International Affairs)が民進党をその主催のシンポジウムに招待した。民進党はこれを機に21人の大型訪問団を組織してアメリカと日本を回り、新党に対する国際的認知を獲得しようとした。一行は2月初め訪米、2週間にわたり全米各地を廻ったあと、15人が2月17日に来日し19日まで日本の政党、学界、マスコミなどと精力的に接触した。確か東京到着早々17日の夕方ではなかったかと思うが、池袋のプリンスホテルで記者会見が開かれるというので私も出かけた。当時の党内急進派「新潮流」のリーダーの一人と目されていた若き日の邱義仁氏(現台湾日本関係協会会長)と初めて言葉を交わしたのを覚えている。

そしてその翌朝、当時東京外国語大学に客員教授で来ていたパリス・チャン教授の仲介で訪問団の一部メンバーを東大駒場に迎えることとなった。現代中国研究者の通称「二水会」と称する勉強会(横浜市立大学の矢吹晋教授主宰)に出席する形で座談会を開いたのである。当時まだ大学院生だった黄英哲さん(現愛知大学教授)が一行の案内役を務めてくれた。

この座談会の模様は、二水会のメンバーでもあった『中央公論』の近藤大博さん(当時編集長)のお世話で、同誌の4月号に「台湾 民主進歩党の挑戦」と題して執筆させていただいた。近藤さんが私の記事につけてくれた「台湾の政治に新しい風が吹いている/台湾は変貌し、新たな転換期に入っている/その渦中にいる人々が日本にやってきた」というリード文が、この時私が日本の世論に伝えたかった感触をよく現していたと思う(※1)

座談会出席の民進党側メンバーは次の6氏であった。( )内には当時の年齢、党内役職、議員職などの公職を付記した。

張俊雄(49歳、党中央執行委員、立法委員)
康寧祥(48歳、党中央常務委員、立法委員)
尤清(44歳、党中央常務委員、立法委員)
謝長廷(41歳、党中央常務委員、台北市議会議員)
蘇貞昌(39歳、党中央常務委員、台湾省議会議員)
廖學廣(33歳、党中央評議員、台北県議会議員)

後に民進党が成長して民主選挙を通じて政権党にまでたどり着いたことを知っている今日の眼からすると、相当の大物が参加してくれていたことになる。張、謝、蘇の三氏は陳水扁政権(2000-08年)の行政院長(首相に相当)、蘇氏は現蔡英文政権でも行政院長を務める。謝氏が1996年初回総統選挙で民進党の副総統候補となったことはすでに触れた。2008年には民進党の総統候補となったが敗れた。現政権下では台湾の駐日代表を務めている。康寧祥氏は、その後党内での地位は後退したが、李登輝政権下で監察委員を務め、陳政権では一時国防部副部長や総統府国家安全会議秘書長を務めた。

ただ、当時の急進派であった新潮流派系統の人は入っていない。私と二水会側では出席メンバー選定には全く関与していないし、訪問団側でどういう判断があったのか分からないが、座談会を通じて発信されたのが、民進党穏健派の見解であったとは言えるだろう。

(※1) ^ 座談会の詳しい内容は当日も参加した坂井臣之助氏が起こしてくれたテープから私が翻訳・編集して『中国研究月報』470号[1987年4月]に「台湾の新野党・民主進歩党は語る」と題して坂井氏と連名で発表した。

「国民党と同じなのは機関の名称だけだ」

前記『中央公論』の記事には、座談会の際に撮影された当日の6氏の表情を示す写真を掲載している。

『中央公論』1987年4月号より(中央公論新社の了解を得て転載)
『中央公論』1987年4月号より(中央公論新社の了解を得て転載)

なかなかの面構えである。決然とした面持ちの中に緊張感が漂う。こうした表情から発せられた、静かだがこれもまた決然とした彼等の発話が、当日の座談会の雰囲気を作り上げていたという印象が今でもある。

彼らの緊張感は、ほとんどが初対面の日本の学者とジャーナリストの前で話したことに由来するものではなかったかと思う。発言した複数のメンバーが、われわれの党は生まれてまだ4カ月あまりの「とてもベイビーな党」で、国民党の法律ではまだ合法化されていない存在であることに注意を喚起していた。私は、彼らの新党党内での職掌や党組織の名称をとりあげ、彼らが反対しているはずの国民党と同じではないかとの質問をぶつけたが、それには国民党がわれわれに「人民団体」として登録せよと迫り、新党の存在を矮小(わいしょう)化しようとしているから故意にそうしたのだとの答えが返ってきた。

新党の前途はまだ不確実性に満ちていた。後知恵からすれば1986年の民進党結成容認や87年の戒厳令解除は結果的には後戻りできない政治的自由化措置であったように見えるのだが、法的には「政党は国土の分裂(台湾独立を指す)を主張してはならない」とする制限付きの自由化であった。新党を潰してしまえる手がかりは存在し続けていた。民進党の法的地位が最終的に安定するのは、これらの制限が無効となる1992年の第二次憲法修正まで待たねばならなかったのである。

私はと言えば、台湾の権威主義体制のブレークスルーにより以後に展開していく初回総統選挙実現までの民主化の十年の台湾政治のダイナミズムをどのように見ていくのか、それを単なる時事的観察の積み上げに終わらせるのではなく、学術的な政治研究としてどのように実現していくのか、そういう課題を突きつけられていたのである。

バナー写真=「党外選挙後援会」の席上で民主進歩党結成が決議された場面。議長席で立ちあがって司会しているのが游錫堃[現立法院長]、右端立って発言しているのが謝長廷、この時彼が民主進歩党という党名を提案した。出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、206-207ページ(筆者提供)

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