「水泳があるからこそ自分がいる」: 池江璃花子の奇跡の復活劇を支えた一途な思い
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日本選手権水泳競技大会2日目の4月4日。最初のエントリー種目、100mバタフライで優勝した池江璃花子は、タイムを確認すると目頭をおさえ、しばらくプールから上がれなかった。
涙はプールから上がっても止まらない。
「今、すごく幸せです」
長期にわたる白血病との闘病を経て、大会に復帰することすら遠い先と思っていた時期もあった。
それは多くの日本人にとっても同じこと。国民の多くが胸を痛めていただけに、優勝は誰もが驚く、ただただ讃えられるべき結果だった。しかもこの成績で、東京五輪メドレーリレー代表の座をつかんだのだ。
病を公表して2年あまり。涙が止まらないのも無理はなかったし、その姿は、ここまでの足取りを象徴するようでもあった。
今や競泳の世界を超えて幅広い認知度を持ち、今日まで輝かしい成績を残してきた池江の水泳人生は、3歳のときに始まった。
「兄と姉も水泳をしていて、自分でやりたいと言って始めました。どんなところに魅力を感じたのかは、覚えていませんが……」
水泳に限らず幼少時から身体を動かすのが好きだったという。
家族もバックアップしてくれた。例えば大工に頼んで家の中の部屋に1本の棒をつけ、遊べるようにした。
「ぶら下がったり、懸垂などをしていました。やらされたのではなく、自分でやりたいというか、自然にやっていました」
さらに雲梯(うんてい)も設置。毎日使って体を動かした。
やがてスイマーとして頭角を現し、中学時代から全国大会に出場。中学3年生のときには日本選手権で好成績をおさめ、世界選手権のリレーメンバーに選出された。中学生の代表入りは14年ぶりのことだった。
リオ五輪7種目出場のインパクト
競泳界を超えて、広く世間に名前が知れ渡ったのは、高校に入学した2016年のこと。その衝撃はすさまじかった。
同年のリオデジャネイロ五輪の代表選考を兼ねた日本選手権でバタフライ、自由形の複数の種目にエントリー。高校新記録を計7度、日本新記録を1度更新するなど好タイムを連発し、計4種目で代表に選ばれたのである。
さらに5、6月の大会での活躍が評価され、7種目でオリンピックに挑むことになった。これは日本競泳史上最多である。
そしてリオでは予選、準決勝、決勝を合わせて、7種目で12のレースを泳ぎ切った。中でも得意とする100mバタフライでは、予選で日本新記録を出すと準決勝、決勝でさらに記録を更新。5位入賞を果たした(レース当日は6位だったが上位の1人にドーピング違反が発覚し、のちに繰り上げ)。
メダリストとはならなくても、それに負けず劣らず脚光を浴びた。その理由は、弱冠16歳の池江が「まだ見たことのない規格外の逸材」であることが、誰にも感じられたからだ。
十代半ばあたりから華々しい活躍をする選手は過去にもいた。だがそれらの選手が平泳ぎや背泳ぎであったのに対し、池江が主戦とするバタフライ、自由形は世界の壁が厚いと言われていた種目だ。そこで世界と伍して戦える可能性を感じさせたことで、期待を寄せられることになった。
しかもリオの7種目が象徴するように、一大会で多くの種目を泳げることも池江の逸材ぶりに拍車をかけた。
海外では毎日のようにレースに出場し、数十分の間隔で異なる種目を泳いで表彰台に軽々と上がるスーパースターが時折現れる。一方、日本ではまだそうした選手が誕生したことはなかった。
日本の競泳の歴史をきっと塗り替える。そんな可能性を秘めた選手だからこそ、国民の大きな期待を集めることになった。
その後も期待に違わぬ成長を見せる。
2017年の日本選手権では、50m、100m、200m自由形、50m、100mバタフライの5種目にエントリー。4日間で10レースを泳ぎすべて優勝、大会史上初の5冠を達成した。
2018年には50m、100m自由形、50m、100mバタフライ、400mフリーリレー、400mメドレーリレーの6種目に出場し、そのすべてで優勝。日本初の6冠を達成し、大会MVPにも輝いた。オリンピックが行われる長水路(50mプール)に限定しても、自由形とバタフライの各種目で、同年までに日本記録を計28回更新しているのも驚くべき数字だ。
身体能力にも恵まれただろう。だが何よりも池江の成長を促したのは、他を圧するほど泳ぐのが好きだということだった。幼い頃からレースが好きだった。
それを物語るのは、2016年のエピソードだ。
リオ五輪から帰国した当日、池江は羽田空港から広島に直行。翌日から全国高校総体に出場し、その後もジュニアオリンピック、国体と、毎週、大会への出場を続けたのである。どの競技であれ、大舞台のあとは休息したいもの。「ありえない」と驚く人がいて不思議はないスケジュールだった。
そのスケジュールを知ったとき、「疲れませんか?」と尋ねると、池江はこう答えた。
「あんまり疲れる、疲れた、と思うことは……。レースが終わった直後は、疲れたー、とは言うんですけど、試合が終わってみると疲れたっていう言葉は出てこないですね。まだまだ先があるから楽しみだなっていう気持ちで本当にいっぱいです。いやあ、帰ってからが、ほんとうに楽しみです」
さまざまな意味で「規格外」と言えた池江は、好調だった2018年が終わり、新たな年が始まって間もない頃、将来の抱負をこう語っている。
「大学生になるので、2019年が楽しみです」
もちろん、その先にある2020年の東京五輪も視野に入れていた。
伸び盛りを襲った突然の病魔
シーズン開幕に備え、1月18日からオーストラリアで合宿を実施。異変はそのさなかに起こった。
2月7日、体調不良のため予定を切り上げ帰国すると発表され、12日には自身のSNSで白血病と診断されたことを発表した。予定していた大会はすべてキャンセルし、療養生活に専念することになった。
池江の存在は「今後を担う可能性を秘める選手」として海外の競泳界でも知られていたから、衝撃的なニュースは国内にととどまらず、世界に広く報じられた。
入院生活は長かった。のちに「生きていることが奇跡」と自身も語ったように、容易ではない闘病生活を経て、退院したのは2019年12月だった。
東京五輪を断念する意向を示した池江は、2024年のパリ五輪を目標にしながら慎重に練習を再開。そして、2020年8月29日、「東京都特別水泳大会」で復帰を果たす。594日ぶりのレースだった。
その後もいくつかの大会に出場しつつ、スタートの練習を毎日続けるなど、一から泳ぎを取り戻すべく地道な練習に取り組んだ。そしてレース復帰後、約7カ月で迎えたのが日本選手権だった。最初の種目100mバタフライで優勝し、東京五輪代表をつかむ。
しかし、池江の活躍はそれにとどまらなかった。終わってみれば、100m自由形、50mバタフライ、50m自由形とエントリー計4種目すべてで優勝。400mメドレーリレーに加え、400mリレーでも代表の切符をつかんだ。
最後のレース、50m自由形決勝のあとは、笑顔だった。
「日本で負けるのは今年が最後と思っていたけど、思っていた以上の成績で、自分をほめてあげたいです」
発病から今日までの苦難の道のりを振り返り、あらためて思う。国内外のメディアに「奇跡」と言わしめる復活劇をもたらしたのは、なんだったのか。
あえて一つをあげるなら、手がかりは次の言葉にある。2016年、リオ五輪が終わったあとに聞いた言葉だ。
「すごい辛いこともあります。でも幸せだなって思うこともたくさんあって、水泳があるからこそ、自分がいるんじゃないかと感じるんです」
泳ぐことが好き。水泳は自分と切っても切り離せない。自分であるために戻らなければいけない場所がプールであり、レースだ――。
その一心が、多くの人々が胸を打たれた復活劇をもたらしたのだと思う。
予定通り開催されるとすれば、東京五輪開幕まであと3カ月あまり。池江のさらなる復調、いや進化が楽しみだ。
バナー写真:2021年4月4日、日本選手権女子100mバタフライで優勝し、嗚咽する池江 AFP=時事