台湾基隆と高崎の絆〜顔家をめぐる新著が解き明かした日台秘話
歴史 国際交流 文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
数年前、私は、日本からクルーズ船で基隆を訪ねたことがある。早朝、朝陽とともに台湾が眼前に現れた。横たわる島はぐんぐん大きくなる。基隆の9割以上が丘陵地帯だ。コンテナや防波堤をすり抜けた先には、無数の四角い建物が斜面に這いつくばるように並んでいた。海にポッカリと口を開けるように、三方を山に囲まれた都市は、今も昔も、台湾の玄関口として、陸と海の交易の要衝地として人々を包み込んできたことを実感した。山の中腹に白いKEELUNG(基隆)という文字が現れた。かの有名なハリウッドサインに似ている。2006年、基隆がより注目されるよう、新しいランドマークとして、ハリウッドを模倣して設置されたそうだ。
この基隆と日本を結ぶ航路は「内台航路」と呼ばれた。日本と台湾が一つだった時代、数えきれない人々が台湾・基隆から旅立ち、内台航路を走る船に揺られて、日本に向かった。船の中で台湾人たちが夢や希望、不安を語り合ったはずだ。
そのなかに、若き日の私の祖父も含まれていた。彼の名前は顔欽賢という。台湾五大家族の一つ、顔家の長男だった。1902年生まれの祖父は、まず東京の磔川(れきせん)小学校で学び、その後、群馬県高崎市の高崎中学に進学する。
祖父が高崎で学んでいたことは家族から伝え聞いていた。しかし、どうして高崎なのかまでは知らなかった。私の両親も早くに亡くなっており、顔一族のなかで知っている人はもういないはず。そんな風に諦めかけていたときに、一冊の本が私の手元に届いた。
祖父が本のタイトルに
『石坂荘作と顔欽賢——台湾人も日本人も平等に——』
祖父が書籍のタイトルになっていることに、なんとも言えない誇らしさを感じ、白と黒を基調としたシックな表紙を幾度となく指でなぞった。
著者の手島仁さんは群馬地域学研究所代表理事を務める。群馬県前橋市に生まれ、高校教諭、群馬県史編纂室主事、群馬県立歴史博物館学芸員などを経験し、群馬学を提唱している郷土史の研究者だ。面識はなかったものの、昨年の春、互いの共通の知人で、日本統治時代に台南市長を務めた羽鳥又男のご子息・羽鳥直之さんを通し、手島仁さんから一通のメールが届いた。
「私は、石坂荘作と顔欽賢に関する本を書きたいと思っています。これから本格的な調査を始めますが、顔欽賢氏について、自叙伝や回顧録など参考文献などございましたらご教示いただけますと、ありがたく存じます」
私から提供できた資料はほとんどなかったが、それから一年、本当に祖父の名前が入った本が完成した。内容は予想を超えて詳細を極めたもので、高崎に祖父が向かった理由など、私の知らないことがたくさん書かれていた。
一族の意向で高崎へ向かった祖父
かつて「基隆といえば顔家」という時代があった。その時代を象徴するように、「基隆から台北まで全部顔家の土地だ」「顔家の庭の広さは迷路のようだ」のような噂がまことしやかに語られた。
実際、顔家は基隆を拠点として、石炭や金の採掘を行い、多角経営に乗り出して成功した一族だ。祖父の生家であった顏家の邸宅「陋園」は基隆の中心にあり、その広さは約6万坪ほどもあった。松や灯籠、池のある日本庭園は、台湾三大庭園の一つに数えられるほど美しいとの評判だった。地元の人々の憩い場としてや、学生たちの遠足地としても開放され、宮家の訪台時の宿泊場所にも指定され、私は、当時を知る人からは「顔さんのお庭でよく遊びました」と言われることも少なくない。
残念ながら「陋園」は終戦直前の空襲に遭い、私が直接訪れることはかなわないが、人々の心に残る場所として語り継がれていることはありがたいことだ。
祖父は一族の意向で小学生より内地の日本に留学に送り出された。群馬県立高崎中学に学び、その後、京都の立命館大学を卒業している。なぜ、東京から高崎へ移り、さらに京都の立命館大学を選んだのか。祖父の日本学歴は謎だらけだった。
本書によれば、祖父の高崎行きは、台湾総督府財務局長の経験があり、群馬県知事を務めていた中川友次郎が勧めたという説と、本書の主役である高崎出身の実業家・石坂荘作が勧めたという説の両方がある。
さらに、立命館への進学について、台湾銀行の頭取を務めた中川小十郎(中川友次郎とは無関係)が深く関わっていたことも本に書かれていた。祖父の父、つまり曽祖父である顔雲年は台湾銀行頭取時代の中川小十郎と親しくなった。顔家や林家など台湾の有力家族は、当時、立命館の大学昇格にあたって多額の寄付をしていたらしい。その縁もあって、祖父だけではなく、祖父の弟2人も立命館に進学している。台湾人脈で知己を得た人々を頼った祖父の日本留学だったようだ。
福田赳夫元首相との友情
高崎中学時代の同級生には、後に首相となる福田赳夫がいた。
本書には、1976年に福田赳夫が第67代内閣総理大臣に就任した際、祖父が祝意を綴った手紙が本の中で披露されていたので、引用したいと思う。
福田学兄の内閣総理大臣就任を祝す
忘れもしない去年の十二月二十四日早朝、当地の新聞を手にすると「日本国会福田を後任首相に指名」という見出しが一面トップに大きく載っているのが目についた。/その時の私の心からの喜びは到底筆舌では表せない。高崎中学の同窓生福田赳夫学兄が政治家として最高の地位である内閣総理大臣になったのだ。これは福田学兄個人の栄誉ばかりでなく、我が高崎中学のこの上もない光栄でもある(中略)学兄が首相に就任された時、本当なら自ら御伺いして祝賀の意を表すべきであるが、何分遠隔の上、日夜雑務に追われて身動きも出来ず遺憾に堪えない。本年一月頃、小生の代わりに長男惠民を遣わして祝賀の意を表すべく伺わした所、御多忙の所を親しく接して頂き非常に有り難く思っている。(後略)
手紙の中に記されている長男の惠民は私の父だ。福田赳夫と祖父の友情は戦後も長く続き、我が家に残っているアルバムには、父と福田赳夫が一緒に写っている写真が収まっている理由を初めて理解するとともに、高崎と顔家のゆかりはかくも複雑に絡み合っていたということを、この本から教えられた。
石坂荘作は遺骨を基隆と群馬に分骨
この本のもう一人の主役は、石坂荘作という人物だ。石坂は1870年に群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)に生まれた。小学校の教員を経て、日清戦争に従軍し、凱旋後再び教員に復職した。1899年に入り、海外雄飛の夢を抱き、台湾に渡った。その後、基隆に居を構え、「石坂商店」を開業した。タバコや度量衡器を扱う商売人とたがして成功する一方、基隆の有力者として、まちづくりや教育を積極的に推進し、1940年に基隆で他界し、遺骨は基隆と郷里の群馬県原町に分骨された。
石坂荘作の基隆に対する最大の貢献は、図書館の「石坂文庫」と夜学校の「基隆夜学会」、女子の職業学校の「基隆技芸女学校」を創設したことが挙げられる。日本人と台湾人、即ち内地人と外地人を差別することなく平等に教育を受けられるよう推奨し、台湾の人々から“基隆聖人”や“台湾図書館の父”と敬われた人物だ。
曾祖父や祖父は石坂荘作の理念に同意し、資金面の援助だけでなく、終戦後は基隆夜学会を引き継いだ。何度かの名称変更を経て、現在も「私立光隆高級家事商業職業学校」として存続しており、祖父は校長や理事長を務めてきた。
本書を読んだ感想は、私の一族に絡んで日本と基隆がこれだけ深いつながりを持っていたのかという驚きであり、台湾と日本のハーフである私にとってもう一つの故郷である基隆について、何も知らなかったという恥ずかしい気持ちだった。
天然の良港、日本人が造った港湾都市
台湾の北東に位置し、太平洋に面した基隆港は、天然の良港として知られている。日本人が築港計画を立て、大きく発展した港湾都市でもある。1896年、大阪商船の神戸―門司―基隆を結ぶ航路を第一号に、内地間定期航路が始まった。以降、留学、商売、観光などに、多くの人々が基隆を玄関口として、日本と台湾を行き来してきた、いってみれば台湾の「顔」だった。
特に終戦直後、台湾で生まれた日本人は基隆に停泊する引き揚げ船に乗り込み、霞ゆく台湾の地を涙しながら見続けたという話を、湾生(日本統治時代に台湾で生まれた日本人)の口から幾度となく聞いた。日本から引き揚げてきた台湾人は、眼前に迫り来る故郷に涙腺が緩み、基隆港の地を、胸躍る気持ちで踏みしめた。
戦後、台北からの交通の便があまり良くなく、周囲を囲む新北市の成長に押され気味だった基隆は発展が遅れ、すっかりと時が止まった街になっていた。
しかし、2009年、台湾の民進党の次世代リーダーと呼び名の高い林右昌が市長に初当選して以来、基隆駅を含めた基隆港一帯の再開発が行われ、アジア一の旅客船ターミナルとなるべく、変貌を続けている。内台航路の発着地であった岸壁と倉庫のある「基隆港西岸碼頭倉庫」は保存され、往時をしのぶことができる。こうした歴史遺産のリノベーションは台湾の得意とするところである。広島の呉市や香川県の高松市、熊本の八代市、沖縄の宮古市など、基隆市と日本各地の港湾都市との関係が深まっており、新たな交流の姿が見えつつある。
『石坂荘作と顔欽賢——台湾人も日本人も平等に——』の出版を機に、基隆と日本の繋がりが広く知られ、台湾の玄関口に注目が集まるようになれば、きっと石坂荘作や祖父も喜んでくれるに違いない。
バナー写真:福田赳夫元首相(前列中央)との長い付き合いががあった、筆者の祖父・顔欽賢(前列左から3番目)と父・顔惠民(後列左から2番目)