私の台湾研究人生:研究事始めの頃
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1949年と72年
私は1949年生まれである。そして72年に大学院に合格して学問研究の道に入った。ちなみに同じ年に結婚した。
1949年は言わずと知れた中華人民共和国が建国の年であり、また蒋介石・中国国民党の中華民国が台湾に逃げ込んだ年でもある。つまり、結果的に中国を名乗る二つの政治体が台湾海峡両岸に対峙(たいじ)することになった年数と私の年齢は同じである。
1972年もまた言わずと知れたニクソン米大統領が訪中してかの「上海コミュニケ」が発出された年、そのあおりで当時の田中角栄首相と大平正芳外相が訪中して日中の国交樹立が行われ、台湾の中華民国と断交した年である。その前年に中華民国は国連から追われている。アメリカとの断交は79年にずれ込んだが、以後台湾の中華民国は、国連安保理常任理事国でもあった非承認国家という例外的な国際身分となって今日に至っている。こうした状況が継続する年数と私の台湾研究者としての活動年数もほぼ同じなわけである。来たる2022年に日台断交が半世紀を迎えれば、私たち夫婦は金婚式を迎えることになる。
私と台湾とはこんな因縁である。台湾を研究対象としているのは、個人的に台湾に係累がいるのだろうとよく言われた。一度などは台湾の地方都市で講演した後、新聞に「若林は母親が台湾人でうんぬん」と書かれたこともある。そういうことは一切無い。記者が勝手に事実を作って書く「マイ・ペーパー」現象は、30年以上たった今も存在しているのは、嘆かわしいことだ。
「台湾」にスイッチが入った頃
では、何があって台湾研究などを始めたのか。
自身の「無知」を知るのが学問の始めだとするなら、私の台湾研究もそうだった。東大教養学部教養学科学部生だった頃、当時アジア経済研究所の研究員だった(のちに立教大学教授)故戴國煇先生(1931-2001)から台湾の作家・呉濁流(1900-1976)の作品『アジアの孤児』を紹介されて読んで衝撃を受けた。内容は、作者の分身とおぼしき地主の息子で植民地教育を受けたインテリである主人公・胡太明の苦悩に満ちた生涯を描いたもので、日本統治下の台湾にあっては日本人への同化を迫られながら日本人からは差別され、出口を求めて中国に渡れば台湾人と知れると「日本の走狗(そうく)」と差別される台湾人の身の上を指した表題が、作者が物故した後の1980年代に入って、台湾人の国際的身分を象徴する言葉として盛んに取り沙汰されたものであった。
だが、それは後のことである。当時の私にとっては、この作品の衝撃はその内容よりは、これを読んで「台湾」について「無知」に気付いたことの方が大きかった。卒業論文を考え始める時期だったこともあり、急に目に映る文字の中で「台湾」の二文字に過敏となった。70年代前半は日本の新聞には「台湾」の二文字はめったに出ない時代だった。それで新聞紙面の「台所」という文字にまで反応している自分に気付いて何度も苦笑いした。「台湾」への関心にスイッチが入ってしまったのだった。
ただ、なぜ当時新聞紙面には「台湾」の二文字が希薄だったのか。この時期には国交樹立と断交のワンセットでもう問題は済んだというムードがあったのではないか、とも後々思った。しかし、これもきちんとした検証が必要だ。そもそも、戦後の日本がどのように台湾を見たのか、というよりはなぜ台湾をあまり見ないようになったのかは、恐らく日本の植民地帝国のいわば「脱帝国化」にかかわる問題である。これまで自分でもしっかりこの問題に取り組めて来ていないのは、いつも自分の力の限界を感じさせる問題領域だった。
「ご主人、大丈夫なの?」
卒論では、1920年代中頃の台湾文化協会「左右分裂」を背景に展開した「中国改造論争」をトピックにして書き、それを審査に提出して大学院は東大の社会学研究科の国際関係論専門コースに進んだ。国際関係論専門コースと言っても、当時はまだ地域研究と同居のような感じで、ソ連・東欧研究や中国研究、そして現代国際政治史研究を目指す人もここに進んだ。台湾研究もやりたければ先生はいないが勝手にやってよろしいというわけであった。
大学院で台湾研究を始めるのだから、まずは台湾を見ておこうというので、修士課程1年目の終わりに1か月ほど台湾に旅行した。戴先生に紹介状を書いてもらったり、一足先に台湾の土地勘を養っていた河原功さんに引き回してもらったりして人に会ったり、台北、台中、台南、高雄をはじめ、鵝鑾鼻、台東、花蓮、そして太魯閣から中央山脈横貫公路をバスで台中へと、台湾島を一回りした。
その時の見聞や会っていただいた方々の思い出などは、回を改めて書きたい。ただ一つここで述べておきたいことがある。当時は、日本経済の高度成長もピークを終える頃であったが、日本人男性の台湾や韓国旅行「売春」ならぬ「買春観光」などという言葉で取り沙汰されていた頃であった。案の定、台湾の各都市でホテルの部屋に落ち着くやドアにノックがあって、開けるとホテルのボーイが今夜寂しくないかといった類いのことを言う。90年に厦門に行った時も同様なことがあった。83年「改革・開放」間もない頃行った時には想像もできなかったことだった。
帰国後に聞いたことだが、この訪台は新婚間もない頃だったこともあり、家内は知り合いの女性から「ご主人大丈夫なの」という類いのことを言われたそうである。その後、当時を知る商社マンに「北投温泉の夜」の「武勇談」を得々と聞かされて閉口した記憶もある。思い出して愉快な記憶ではないが、当時の日台関係の一端を示す事柄として記しておきたい。確か90年代に入って、日本のテレビコマーシャルに若い女性向けの台湾ツアーの宣伝が出るようになったのを見て、時代は変わったものだと感心した。
「大陸反攻」の勧めがあった頃
その後、もちろん修士論文を書いた。論文では植民地期の台湾共産党を取り上げた。修論の口述試験では、審査委員だった故衛藤瀋吉先生に「謝雪紅は戦後どうしたのか」と質問された。謝は当時上海からモスクワに行って訓練を受け、再度上海に戻って台湾共産党の創立に参加した女性リーダーである。二二八事件の後、香港に密航し中国解放区に入り、台湾民主自治同盟を組織して中華人民共和国の建国に参加したこと、しかしその後の反右派闘争、文革で批判を受け迫害されたが、その後名誉回復しているらしいことなどを答えた。これくらいのことは当時でも知ることができたのである。さらに突っ込まれるかとビクビクものだったが、それ以上の質問は無く、無事合格となった。先生は、台湾共産党関係直接の資料だけではなく、周辺の知識を踏まえた上でモノを書いているのか確認しようとされたのではないかと後で思った。
ところが、私はその時粗忽(そこつ)にも博士課程進学の手続に必要な健康診断を受けるのをど忘れしていた。大慌てで受診して事なきを得たのであるが、後で聞けば指導教授だった故上原淳道先生が大学院の委員会で私のために頭を下げて下さったのだという。今でも思い出すと恥ずかしくて仕方がない。今は亡き先生ではあるが、この場を借りて再度お詫びと御礼とを申し上げたい。
そんなこんなで博士課程に進んだのであるが、さて博論にはどんなテーマで取り組んだらよいのか迷いに迷って、一時、自律神経失調症になってしまった。大学3年の中国旅行の時に知り合った友人が何とはり・きゅう師の勉強をしていて、格安で治療してくれたので、それで何とか乗り切り、結果的に博士論文につながる台湾議会設置請願運動の研究に取り組むようになったのだが、それはしばらく後のことである。
その頃だったと思う。ゼミの帰りに同道していた大学院の先輩に「いつ”大陸反攻”する(中国研究に乗り換える)つもりか」と尋ねられた。まだ海のものとも山のものともつかぬ分野に手を付けてしまった後輩の前途を気遣っての言である。そう問われて特にショックを受けたわけではない。ただ、聞いてなるほどそう考えるのが世間の相場というものかと今更ながらに感じて、長く記憶に残っている。
その後も「大陸反攻」はできなかったし、しなかった。どういうわけか何年も経ってからこのことをふと思い出して、そういえば蒋介石だって「大陸反攻」はできなかったではないかと思ったりもした。結果として、私の研究人生は台湾研究の人生となってしまったのである。
バナー写真=筆者(野嶋剛撮影)