政治家の「自己定義」
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米国のトランプ前大統領が、来る大統領選挙で新たに対立候補となったハリス氏について、「黒人なのかアジア(インド)系なのかわからない、都合よく使い分けているのでは」との趣旨の論評をして、話題となった。米国ではとかく「人種」が、政治家のみならず、個人個人の属性(アイデンティティの要素)として問題となる。
本来、個人の属性というか、自分が何者かという「自己定義」は、本人が行うのが自然に思える。しかし、「自分」に見えない自分もあれば、自分ではなく周囲の社会が勝手に作り出してしまうイメージも無視できない。たとえば、いったん目覚ましい競技成績をあげたスポーツ選手は、引退して、別の仕事をしていても「何々選手」と言われがちだ。
また、自己の属性のうち、世間からは隠したいと思う経歴や属性があるとき、「本当の自分」とは何かは微妙な問題だ。わが国の政治では、韓国系とか中国系と言った、両親や生まれ故郷が問題とされることはあっても、政治家の「人種」が云々されることは、まずないであろう。
けれども、今日本では、昨今の政治不信の影響もあって、政治家の属性のうち、「若さ」を強調する人が多い。そこには、年配者はどうしても保守的になるので、変化をもたらすには若者がよいという心理が働いているように見える。しかし、若者はえてして、「本当の自分」が分かっていないことが多い。経験則によれば、気付いていない自分こそ、実は本当の自分だと謙虚に思えるような人は、圧倒的に年配者だという。そうとすれば、いたずらに若さに期待するのも問題だ。
若さに加えて、昨今よく話題にのぼるのは性別(ジェンダー)だ。初の女性副大統領候補だとか、初の女性首相候補と言った表現やスローガンが叫ばれる。「新しさ」のほかに、そこにどういう意味が込められているのかは、慎重に吟味せねばなるまい。
なぜなら、いかなる職業も地位も、性別に関わりなく開かれるべきだとはいっても、男性、女性それぞれが、その「特性」をどういう状況下で、どのように生かし得るかは別問題だからである。また、各都道府県の農業委員会の代表をはじめとして、地方の多くの役職が、いまだに圧倒的多数が男性である状況下で、中央政界の動きがどこまで地方に影響を与え得るかも考えねばなるまい。
そもそも、政治家の属性というかアイデンティティは、いまや、本人やその周辺の人々の定義よりも、マスコミを含め、社会の風潮が、かなり「人為的」に作り上げてしまっていないか。そして、それを本人が巧妙に「利用」しているケースすら多いように思われる。だからこそ、オバマ米大統領は、自ら「黒人初の大統領」といった言葉を口にしなかったのではあるまいか。
日本の政治においても、政治家個人の政策、識見を問うべきであり、若いとか、女性であるとか、二世議員であるとかいった個人的「属性」をみだりに強調すべきではあるまい。政治の良しあしは政治家の「属性」ではなく、思想や政見次第によって決められるべきではないかと思うからである。
バナー写真:東京都知事選で候補者の演説を聞く有権者ら=2024年6月30日、東京都中央区(時事)