オリンピック・パラリンピックの「劇場化」
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26日に開幕するパリ五輪大会は、前回の東京大会と著しく違う大会となろう。
東京大会は、コロナ禍の影響により無観客で行われ、派手な開会式はなく、結果的には選手主体(アスリート・ファースト)の大会であった。それに反して、パリ大会の開会式は、セーヌ川上の船の上が式場になり、また、各競技の行われる場所も、ビーチバレーはエッフェル塔の下、アーチェリーはアンヴァリッド、新競技のブレイキンはコンコルド広場が選ばれるなど、パリの名所の紹介プログラムともなっており、テレビの視聴者も含めた「観客」主体ともいえる形をとっている。
このように、パリ大会は、近年の五輪大会、ひいては、スポーツ行事一般に目立ってきている傾向を反映している。それは、スポーツイベントの娯楽化であり、劇場化である。野球場にゆるキャラやチアリーダーが派手に登場し、観客も垂れ幕を掲げる。サッカー場では、旗がひらめき、愛好するチームのユニフォームを着たり、ロゴを化粧したりするファンも少なくない。そして競技場は、観客の一体感を醸し出す一大劇場と化す。
こうした現象は、今や五輪大会をはじめ、大きなスポーツ行事が、スター選手が活躍する「劇場」となっていることを意味しており、その裏には、徹底した能力主義、商業主義、メダル重視傾向が存在している。これらの傾向は、五輪大会などの「栄光」を高めてきたが、同時に、矛盾あるいは深刻な問題をも露呈してきた。
一つの問題は、過度な能力主義が薬物使用を促し、また、競技用具の高度化や競技活動の科学的分析を推し進めた結果、個人の身体能力や精神力以外の要素での競争が激しくなり、選手が薬物や技術の「ロボット」になりかねない状況が生じていることである。
メダル至上主義は、また、メダル獲得をめぐるナショナリズムを剌激し、数カ国によるメダルの独占あるいは寡占状態を作り出している。
さらに、かなりの国で選手のプロ化(企業との全面的契約選手も含む)が起こり、五輪大会全般をめぐるスポンサーの問題と相まって、企業のスポーツ支援の意義があらためて問われている。
こうした五輪大会の傾向は、五輪と一体のパラリンピックにも「感染」し、かつては、障害者の社会参加や、一般人の障害者理解を増進する目的を内包していた大会が今や、スポーツの祭典として華々しく認知されるようになったが故に、一般の障害者からやや離れたイベントになりつつあるという「成功のパラドックス」を生み出している。
日本の国民スポーツ大会(国民体育大会)にも同様の問題がある。大会開催地の都道府県に過度の負担をかけ、地方自治体同士の争いも激化するため、実は大会開催が一般国民や市民から離れていくようになっている。
パリ五輪大会を契機に、オリンピック・パラリンピックのありかた、ひいては、大規模なスポーツ行事一般のありかたについて、それぞれの原点に立ち返って広く議論を促進すべきではあるまいか。
バナー写真:エッフェル塔に掲げられた五輪マーク=2024年7月14日、フランス・パリ(時事)