浜通りの新たな魅力を創出「福島イノベーション・コースト構想」
展示では伝え切れない体験や思いを、生の声で届ける:東日本大震災・原子力災害伝承館の語り部たち
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一人一人違う、被災体験や復興への思い
「あの時の悲しみや悔しさなど、展示では伝え切れないものが多い。だから、生の声で語りかけている」
「東日本大震災・原子力災害伝承館」(運営:福島イノベーション・コースト構想推進機構)のチーフアテンダント・泉田淳さんは、語り部講話や展示案内の重要性をそう説明してくれた。さらに「震災の体験や復興への思いは、語り部一人一人が違う。私の場合は被災者、被害者、避難者、そして教師として話をしている。ぜひ、いろいろな語り部の話を聞いてほしい」とアピールする。
泉田さんは2011年3月11日の震災まで、伝承館に程近い双葉町両竹で暮らし、南相馬市にある大甕(おおみか)小学校の教壇に立っていた。福島第1原発(双葉町、大熊町)事故の影響で避難生活をしながらも教師を続け、20年3月にいわき市の仮校舎で授業をしていた双葉南小学校の校長を退職。翌月から、開館準備中の伝承館で勤務を始めた。元教師だけに話や解説が上手で、来館者からは「泉田さんみたいな先生に習いたかった」と言われることもあるというが、本人は「そんな大した教師ではなかった」と謙遜する。
伝承館では20年9月のオープン以来、語り部講話に力を入れている。現在は1日4回、常設展示室の一画で開催しており、予約なしで参加が可能。ただ、講話の存在自体を知らなかったり、40分間拘束されることを嫌ったりして、素通りする人が少なくない。
泉田さんは「語り部初心者の頃はうまく伝えることができず、話が得意、下手も当然あった。でも2年以上たって、それぞれクオリティーが上がり、内容も磨かれている」と仲間の成長を評価し、公式HPで講話のスケジュールやテーマを確認してから来館することを薦める。
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自分らの二の舞いになってほしくない
双葉町出身で元町役場職員の熊勝好さんは「私の下手な話を聞くより、バスでも借りて誰も住まなくなった地域を走った方が、伝わるものが多いんじゃないかと思う」と照れながら話す。それでも、震災と原発事故の記憶を風化させてはいけないという思いから、語り部を続けているそうだ。
熊さんは「震災から10年以上が過ぎ、自分でも忘れ始めていることがある」とし、他の語り部が体験談や復興への思いを中心に話す場合も多い中、「私はなるべく時系列に沿って、被災の状況や避難生活の様子を細かく語ることを大切にしている。事実をしっかり伝えると同時に、自分自身の記憶も風化させないことにつながるから」と語る。
この日の講話は、福島第1原発が着工した1967(昭和42)年から始まった。「何にもなかった町が、原発の恩恵を受けたのは確か。新しい仕事、住民が増え、農閑期に東京へ出稼ぎに行く必要もなくなった。恨む気持ちもあるが、正直、複雑な思いだ」と切り出し、役場職員として災害対応に当たったことや、避難所を転々とした経験を詳細に語る。原発ができる前からの浜通りの歴史を知る人の証言は貴重だ。
熊さんは現在、いわき市で暮らしており、車で片道約1時間かけて双葉町に通う。苦労を惜しまず、語り部を続けるのは「自分らの二の舞いになってほしくない」という思いもあるからだ。
「日本は災害が多く、南海トラフ地震では東日本大震災以上の被害が予測されている。私らがひどい目に遭ったからこそ心配だし、同じ思いは絶対にさせたくない。だから、自然災害や原発事故の怖さ、防災の大切さを伝え続けていく」
自分に語り部の資格があるのか…
若手の語り部も活躍している。伝承館スタッフの遠藤美来さんはいわき市出身で、小学校3年生の時に被災。金曜日の下校時だったので、親友と「また月曜日にね」と別れた直後、立っていられないほどの大きな揺れに襲われた。当時の恐怖は鮮明に記憶に残っているが、自宅は街中にあるため、津波は目にしていない。原発事故で一時的に東京へ避難したものの、新学期が始まる4月にはいわきに戻っている。
高校に入るまでは学校生活が忙しく、震災のことはあまり考えずにいた。それが、広野町の「ふたば未来学園」に進学したことで、「震災はまだ終わっていない」と実感したそうだ。広野町は避難指示が1年ほどで解除され、今では住民の9割が帰還している。それでも、少子高齢化が進み、校外授業で交流していた地元の高齢者は「都会に避難した孫が、帰ってこない」とこぼしていた。遠藤さんは地元に恩返ししたい、復興の力になりたいとの思いが募り、就職先に伝承館を選んだ。
2年目に上司に「若手も語り部をやってみろ」と言われ時は、正直困惑したという。家族を失い、住む場所を追われた人がたくさんいるのに、私で務まるのか――。受付業務を担当していて、来館者から「双葉郡出身じゃないのか」と言われ、深刻な被害を受けていないことが逆に負い目になっていたところもある。
私だから伝えられる被災体験がある
それでも「震災を風化させないため、自分にできることがあるはず」と頑張った。大きな転機となったのが、長崎の語り部との交流だった。長崎では原爆体験を持つ人の高齢化によって、その人たちから聞いた話を伝える次世代の語り部が増えている。「遠藤さんは自分自身の体験があるんだから、自信を持って語ればいい」と声を掛けられ、気持ちが楽になった。実際、中・高校生には「私だから伝わりやすいと感じることがある」という。
「例えば、地震の直前に『またね~』と手を振り合った親友とは、それ以来12年間会っていない。避難後は他県に移住してしまい、やっとSNSでつながって『高校卒業したら会おうね』と約束したのに、今度はコロナ禍になった。そうした話をすると、自分たちにも災害が突然起こりうることを、実感を持ってとらえてもらえる」
復興については、以前の住民が全員戻るのは難しいが、「新しい若い人がたくさん入ってくれば、帰還者も戻りやすくなるはず」とし、「だから被災体験だけでなく、福島の魅力も一緒に伝えていきたい。浜通りは自然豊かで、食べ物がおいしく、人があたたかいんですよって」と笑う。今後は、東日本大震災を知らない世代が増えていく中、若手語り部の成長は頼もしい。
みんなと一緒に未来を語り合う場所へ
伝承館では常設展示の最後に、福島イノベーション・コースト構想の情報発信をしている。ただ、地震や津波、原子力災害の恐ろしさに心を揺さぶられた後、 急に“空飛ぶクルマ”が登場しても、子どもや学生などには、その関係性を理解するのは難しそうだ。
泉田さんはアテンドスタッフができるだけ対応し、「浜通りには新しい産業が必要なこと、南相馬市にドローンも飛ばせる福島ロボットテストフィールドがあり、浪江町で水素の活用が進んでいることなどを丁寧に説明している」という。
かつて双葉町には、大きな看板で“原子力 明るい未来のエネルギー”の標語が掲げられていた。80年代後半に町民が考えた言葉で、多くの人が未来のエネルギーに期待し、原発誘致を歓迎していたことを物語る。泉田さんは福島イノベ構想について解説する際、この看板につい話し、「あなたはどう思う?」と問いかけてみるそうだ。
「福島イノベ構想は、浜通りの復興に大きな役割を果たすでしょう。ただ、福島第1の事故で、人間の考えること、出来ることには限界があることを思い知らされた。だから、夢の新技術を無批判に受け入れるのではなく、しっかりと監視の目も向けなければならない。この伝承館は過去の出来事を伝えるだけでなく、自分自身について、日本や地球の未来について、共に考える施設でありたいと私は思っている」
そして教師の目線に戻り、「震災、原発事故をくぐり抜けてきた子どもたちは、本当に立派に育ってくれている」と頼もしげに付け加えた。
「だから大人たちには『若い人を信用しよう』と伝えている。悔しいけど、元の町に戻ることは難しいので、新しい人が来てくれる魅力的な場所にしてほしい。こんなことがあったからこそ、素晴らしい町にできるはずだ」
撮影=土師野 幸徳(ニッポンドットコム)
バナー:語り部の遠藤美来さん。東日本大震災・原子力災害伝承館の屋上で