台湾海峡の地政学リスク

澎湖諸島——台湾海峡に浮かぶ島々の歴史と台湾にとっての価値

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澎湖(ほうこ・ぼうこ)諸島は台湾海峡の南東部に位置する島嶼群である。澎湖水道を挟んで台湾本島に約50キロ、中国までは約140キロの距離にある。大小64の島々が南北に約60キロ、東西に約40キロの間に点在する。本島以外の大半は無人島で、岩礁を含めるとその数は90あまりとなる。台湾と中国大陸との間に位置することから欧米列強に狙われ、日本や国民党政権に軍事要塞化された時期も長かったが、現在は観光と歴史の魅力あふれる島として人気を集めている。

澎湖諸島のプロフィールと馬公市

澎湖諸島(以下、澎湖)は台湾海峡に浮かぶ島々である。全域が澎湖県に属し、無人島や岩礁を合わせた面積は141.1平方キロ。ただし、干潮時には2割増しになるほど干満差が大きい。県庁所在地・馬公市のある澎湖本島のほか、西嶼、白沙島、吉貝嶼、虎井嶼、望安島、七美嶼などがあり、複雑な海岸線の総延長は300キロを超える。

澎湖の拠点となる馬公市の人口は6万あまり。澎湖県の人口は約11万なので、県民の半数が馬公市民となる。媽祖を祀(まつ)る廟(びょう)の存在に従い、旧称は「媽宮」だったが、1921年に馬公と改められた。

馬公は港を中心に開けている。日本統治時代は軍港として栄え、海軍要港部が置かれていた。そのため、内地人(日本本土出身者とその子孫)の居住者が多く、馬公港の向かいに位置する測天島に多く暮らしていた。高雄や基隆(きいるん)と同様、全域が要塞(ようさい)とされていたため、撮影や写生は全面的に禁止されていた。

馬公は夕陽の美しさで知られる。日本統治時代は要塞として整備された。1923年4月23日には当時皇太子だった昭和天皇も訪れている。馬公観音亭の夕暮れ
馬公は夕陽の美しさで知られる。日本統治時代は要塞として整備された。1923年4月23日には当時皇太子だった昭和天皇も訪れている。馬公観音亭の夕暮れ

なお、馬公の町はずれには日本時代に設けられていた軍人官舎群が残る。戦後は中華民国軍人の居住区となっていた。現在はこういった家屋が芸術工房などに再利用されており、多くの行楽客でにぎわっている。

澎湖県政府(県庁)。1935年2月11日竣工。基礎の部分には隆起サンゴ石が用いられ、優美さを醸し出している。設計時、竜宮城をイメージしたとも言われる
澎湖県政府(県庁)。1935年2月11日竣工。基礎の部分には隆起サンゴ石が用いられ、優美さを醸し出している。設計時、竜宮城をイメージしたとも言われる

各勢力に翻弄された島の歴史

この島には台湾島よりも早く、唐末・五代十国時代には漁民が行き来を始め、南宋の時代には漢人の定住が始まったとされる。歴史の舞台に登場するのは元の時代で、フビライ(クビライ)は1281年、媽宮(馬公)に澎湖巡検司を置き、この地を統治した。

その後、明国時代に入ると、東シナ海には海賊が横行するようになる。いわゆる倭寇(わこう)で、澎湖はその拠点となっていた。

17世紀を迎えると、欧米列強がこの地に目を付け始めるようになる。ポルトガル人はこの島々を「ぺスカドーリス(pescadores)」と呼んだ。これは漁師を意味しており、西嶼の旧名は「漁翁島」であった。

1622年にはオランダが澎湖を占領し、明と交戦。その後の交渉で、明はすでに漢人が定住していた澎湖を返還させる代わりに、台湾島をオランダに渡すことを提案。これによって台湾は38年間のオランダ統治時代を迎えることになった。

通樑のガジュマル。冬場に吹く北東季節風の影響で大きな樹木は南西に偏形しながら枝葉を伸ばしている。1673年に植樹されたものと言われている
通樑のガジュマル。冬場に吹く北東季節風の影響で大きな樹木は南西に偏形しながら枝葉を伸ばしている。1673年に植樹されたものと言われている

その後、オランダは明の復興を目指して清と戦った鄭成功によって台湾を追われる。その鄭成功も澎湖を拠点とした。さらに1683年、清が鄭氏政権(鄭成功が台湾に樹立した政権)を攻撃した際にも、澎湖が舞台となった。

時代は下り、清仏戦争で澎湖はフランスに占領されている。1885年には澎湖に駐留していた清国の防備隊が全滅している。6月9日には天津条約が結ばれ、戦闘は終結するが、それから9年後に日清戦争が勃発し、下関条約によって、台湾と澎湖は日本の統治下に入った。

太平洋戦争終戦までの半世紀、澎湖は日本の統治下に置かれ、馬公は一貫して軍港・要塞の扱いを受けた。澎湖は人口が少なく、目立った産業もなかったが、台湾海峡上の要衝であり、地理的重要性は高かった。戦後もそれは変わることなく、中華民国政府もこの地の戦略的意義を重視した。洋上の要としての軍事的機能は現在も変わっていない。

厳しい気候条件と産業

澎湖の気候は温暖で、馬公市の年間平均気温は23度前後。年間降水量は1000ミリに満たず、台湾本島の約半分である(2020年は特に少なく、約720ミリだった)。しかも、降雨は夏に偏るため河川らしきものはない。

澎湖海域は東アジアでも指折りの強風地帯でもある。台湾海峡は中国大陸と台湾島に挟まれた上に両岸に山岳があるため、風力が高まる。しかも、この島の地勢は起伏がなく、澎湖本島では大城山の48メートル、澎湖県全体でも猫嶼の79メートルが最高地点と低いため、海上から吹き付ける風はさえぎられることなく、一気に吹き抜ける。

澎澎灘は海積と波浪によって形成された巨大な砂州で、純白の砂浜がまぶしい。吹き付ける風や海流、干満によって、場所や面積、形状が変化するのが特色となっている
澎澎灘は海積と波浪によって形成された巨大な砂州で、純白の砂浜がまぶしい。吹き付ける風や海流、干満によって、場所や面積、形状が変化するのが特色となっている

10月から3月までに北東から吹き付ける季節風は特に強く、海水飛沫が飛散する。これは「鹹雨(かんう)」と呼ばれるが、強風は土中の水分を奪い、植物の表面からも水分と熱を奪うため成長しにくい。現在見られる森林も大半が植林によるものである。

農法も独特で、「菜宅(さいたく)」と言われるものが見られる。強い季節風から作物を守るため、玄武岩やサンゴ石灰岩、隆起サンゴ礁の石塊で防風垣を設け、風下にあたる場所で栽培をする方法である。

西嶼(漁翁島)に残る伝統家屋群。冬場の強風に備え、サンゴ石灰岩などを用いて石壁を備えている古い家屋が少なくない
西嶼(漁翁島)に残る伝統家屋群。冬場の強風に備え、サンゴ石灰岩などを用いて石壁を備えている古い家屋が少なくない

一方、農業には不向きな土地だが、澎湖本島西部では乾燥に強い作物が栽培され、落花生やイモ類、風に強いヘチマやカボチャ、スイカなどは味の良さで知られている。

世界的に知られる好漁場

澎湖近海は好漁場として知られ、700種を超える魚介類が生息している。台湾海峡には複数の海流が合流する。具体的には上海・寧波方面から南下する寒流と高雄方面から北上する黒潮の支流の接点であり、これに香港方面からの暖流と新竹方面からの寒流が加わる。そして、澎湖の北と南には大陸棚があり、とりわけ南側にある「フォルモサバンク(台湾浅堆)」は広大な面積を誇る。

石滬(せきこ)についても触れておきたい。日本では「石干見(いしひび)」と呼ばれる伝統的な漁法だ。潮間帯に石垣を造り、潮の干満差を利用する。満潮時には水没している石垣が、干潮時になると浮上するため、魚は外に出られなくなる。これを網や銛(もり)などを用いて捕獲する。

石垣は玄武岩とサンゴ石を用い、隙間には小石を詰め込む。シンプルな漁法ではあるが、回遊する魚の習性や海流を熟知し、試行錯誤を繰り返した上で生まれた文化遺産である。

現在、澎湖には総数574カ所以上の石滬が存在し、109カ所が北部の吉貝嶼に集まっている。類するものは沖縄や奄美、南太平洋などでも見られるが、その密度については澎湖が最も高い。

際立った個性を誇る玄武岩地形

澎湖は玄武岩地形をはじめとして、独特な地勢を誇る。西端にある花嶼(かしょ)を除くと、ほぼ全域が玄武岩からなる溶岩台地である。新生代末期に溶岩が地殻を突き破って噴出したもので、特に東部と南部の島々で顕著に現れる。

無人島も多く、ヤギが放牧されていることも少なくない。現在、東吉嶼、西吉嶼、東嶼坪嶼、西嶼坪嶼は南方四島国家公園(国立公園)に指定されている
無人島も多く、ヤギが放牧されていることも少なくない。現在、東吉嶼、西吉嶼、東嶼坪嶼、西嶼坪嶼は南方四島国家公園(国立公園)に指定されている

例えば、員貝嶼(いんばいしょ)や桶盤嶼(とうばんしょ)などは小型船に乗って玄武岩景観を海上から眺めるミニトリップが好評を博している。切り立った海蝕柱(かいしょくちゅう=海によって岩盤が侵食されて形成された、急峻な斜面を持つ柱のような形状の岩)がそびえ立ち、放射状に広がった露出地層や傾斜した岩盤などは澎湖特有の景観と言える。

桶盤嶼には海蝕地形が続く。ここで眺める夕陽を浴びた赤みを帯びた玄武岩地形も印象深い景観。島全体が台地状で、中央部は平坦な高台となっている
桶盤嶼には海蝕地形が続く。ここで眺める夕陽を浴びた赤みを帯びた玄武岩地形も印象深い景観。島全体が台地状で、中央部は平坦な高台となっている

台湾(中華民国)は国連非加盟国であり、世界遺産条約の締約国ではないが、台湾政府文化部文化資産局はいくつかの場所を「登録される価値を有するスポット」として挙げている。澎湖の石滬群と玄武岩自然保留区もその一つで、熱心な働きかけとアピールが続けられている。

観光業で生きる人々

ここ数年、澎湖最大の産業となっているのは観光業である。漁業と農業、そして水産加工業は年々比重を下げつつあり、飲食や宿泊、レジャーなどサービス産業の成長が著しい。天候の関係で旅行シーズンが夏場に限られるが、美しい自然と独自の景観は多くの人々を引きつけてやまない。

また、行政としては海水の淡水化事業や風力発電のほか、サンゴをはじめとする生態環境の保全などにも熱心だ。「台湾海峡に浮かぶ宝石」とも称される島々の素顔に触れてみたいところである。

目斗灯台。日本統治時代は北島(きたしま)灯台と呼ばれた。澎湖諸島の北部も暗礁が多く、航海上の難所となっていた。1902年6月竣工
目斗灯台。日本統治時代は北島(きたしま)灯台と呼ばれた。澎湖諸島の北部も暗礁が多く、航海上の難所となっていた。1902年6月竣工

取材協力・王秀燕(長立旅行社)、郭金泉(長春大飯店)、陳盡川、陳旅、宮坂大智、林瑞祥(馬公会)

写真は全て筆者撮影。

バナー写真=西吉島。澎湖の玄武岩景観。切り立った石柱は見事な眺め。柱状節理を間近に見ることができる。玄武岩地形は粘度の低い溶岩に特有のもの。

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