ミャンマー特集(7) 戦争をめぐる「美談」を超えて新しい関係へ
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独立の「恩人」南機関・鈴木大佐
8月23日、東京のホテルに、ミャンマーから招いた国軍の将官約10人が顔をそろえた。日本財団が継続的に行なっているミャンマー将官級交流プログラムで、日本各地の自衛隊などを10日ほどかけて訪問する。日・ミャンマーの軍事関係者の重要な交流チャンネルになっている。
そこで、団長格の第6特別作戦室長、タン・トゥン・ウー中将に私は尋ねた。 「鈴木大佐の物語をどう思いますか」
鈴木大佐とは、戦中、日本軍の秘密組織「南機関」で、英植民地であったビルマを攻略する工作を担った鈴木敬司大佐(1897-1967)のことだ。政権与党、国民民主連盟(NLD)のアウン・サン・スー・チー国家顧問の父であるアウン・サン将軍らビルマ人30人のナショナリストの若者に対し、徹底的な軍事訓練を日本や中国・海南島、台湾で行い、反英組織・ビルマ独立義勇軍の結成につなげた。
この独立義勇軍は、のちにミャンマー国軍の母体となる。国軍でいまも日本の軍歌が歌われているのは、こうした経緯に由来するものだ。
「鈴木大佐のことは、国軍に入る前から知っていました。われわれの独立に大きな貢献をしてくれた恩人です」。タン・トゥン・ウー中将は「恩人」という言葉で、鈴木大佐を言い表した。
対英共同戦線を張った日本軍とビルマの若者たちは、英国をビルマから駆逐したあと、独立問題をめぐって対立し、決裂する。鈴木大佐は確かにビルマ独立の恩人だが、任務途中で解任され帰国。ビルマ独立義勇軍は抗日クーデターを起こして日本兵を多数殺害しつつ、独立闘争を展開した。
総じていえば、ミャンマー人が感じる恩義は、鈴木大佐を含めた当時のビルマ独立を本気で助けようと考えた一部の日本人に対するもので、ビルマの若者を反英戦争の駒として利用しようとした日本という国家に対するものではなかった。その証拠に、ビルマ独立後、歴史教科書でも戦前の日本は「ファシスト」と位置付けられている。
しかしながら、人情を重んじるミャンマーの人々は、鈴木大佐という個人への恩義を忘れずにいてくれており、それが「日本人全体」への好感にうまくつながっているのである。
浜名湖畔の「碑」
歓迎レセプションの翌日、ミャンマー国軍の将官一行は、鈴木大佐のふるさとである静岡県浜松市に向かった。浜名湖畔にある舘山寺(かんざんじ)温泉で、湖を一望する高さ113メートルの大草山の頂上に「ビルマゆかりの碑」があるからだ。「独立の父」と呼ばれるアウン・サン将軍は1940年ごろ、この舘山寺温泉に潜伏し、独立に向けた計画を鈴木大佐と練ったと言われている。
実はスー・チー国家顧問も、60年代と80年代に二度、鈴木大佐の家族に会うために、浜松を訪れている。国軍の将官一行は碑文に向けて深く頭を下げ、鈴木大佐の貢献に思いを馳せた。
一行に付き添った「浜名湖かんさんじ温泉観光協会」の佐藤英年専務理事は「協会としても、こうした日本とミャンマーの間の知られざる歴史を世の中に広く伝えて、ミャンマー人や日本人が浜名湖に足を運ぶ理由の一つにしていきたい。指導者になったスー・チーさんにもぜひ来て欲しい」と語る。
ミャンマーと日本との間には、軍部と民主化政党の対立関係の影響で、デリケートな問題も残っている。民主化運動への弾圧で亡命して日本に渡ったミャンマー人も多数おり、軍政時代に改名された国名「ミャンマー」という表記そのものにも「ビルマ」の使用がふさわしいと反対し、軍政に対する支援を維持した日本政府の姿勢に疑問を呈する意見も存在する。軍部と民主化勢力に対しては、それぞれ従来の関わり方もあって日本国内に温度差がある。
しかし、南機関・鈴木大佐とアウン・サン将軍らの交流に象徴される歴史的な「美談」を共有していることは、地理的にみればアジアの東と西に遠く離れた両国を、確かに深く結びつけていきた。
元日本軍兵による「償い」の涅槃像
ミャンマー最北端のカチン州・ミッチーナを訪れた。そこには、日本人が建立した寺院「スータウンピー・パヤー」がある。巨大な寝仏=涅槃像で知られ、訪れた時もひっきりなしに参拝に来る現地の人々がいた。寺院の片隅には、建立の縁起を語った碑文が立っていた。それによれば、この寺院を2000年に建立したのは福岡県出身の元兵士、坂口睦さん(故人)だという。
英国と戦ったビルマ戦線の中でも、ミッチーナは過酷であった。ミッチーナ派遣軍を率いた水上源蔵少将は、戦況不利を悟り、徹底抗戦を命じる大本営に背いて撤退命令を出し、多くの兵士の生命を救った。自らは責任をとって自決した水上少将の判断で、一命をとりとめたのが坂口さんだった。
坂口さんが自ら書き残した寺院内の「招魂の碑」には、こう書かれている。
「又、敗戦と知りつつ、日本軍と共に祖国のために闘い戦死せる多数のビルマ兵補の死を我等は決して忘れることはない。戦火により亡くなられた全ての人の霊を弔うと共に、被害を受けたミャンマー国民へのいささかの償いとして、涅槃像を建立した」
床に腰をおろして、涅槃像を参拝していた現地の女性に聞いた。
「詳しくは知りませんが、この涅槃像は日本人の兵隊さんが建ててくれたものですよね。祖父からは『戦争中は日本兵が怖くて山の中に隠れていた。戻ってみたら、戦闘で家は壊れていた』と聞かされていました。でも、兵隊さんの気持ちはありがたいものです。いつもありがたくお参りさせてもらっています」
ビルマ人まで動員して多数死なせているビルマ戦線での戦いや、日本の苛烈な占領政策を「正しい戦争」とするような価値観は、いまのミャンマーでも受け入れられない。しかし、国家や家族を思って命を犠牲にした家族や友人を弔おうとする日本人を、この国の人々は自然に受け入れている。本連載で登場した井本勝幸さんらが進める遺骨収集にも、ミャンマーの人々は政治的立場を超えて一貫して協力的だという。その温かさが、日本人のこの国への愛着を一層呼んでいるように思える。
日本人にとって、ミャンマーは映画化もされた竹山道雄氏の児童文学『ビルマの竪琴』だという人が、特に年齢の高い世代には多いだろう。実は小説や映画で描かれていた竪琴は、この国の伝統音楽に存在しない。著者の竹山氏も現地を訪れたことはなく、空想の中のビルマであった。ただ、主人公・水島上等兵のように死者に思いを馳せる日本人の姿は、格別篤い仏教信仰を持っているミャンマーの人々とっても違和感なく受け入れられるものなのだろう。
「軍政」に逆戻りさせないために
ミャンマーにとって、投資や援助などの経済から少数民族和平に至るまで支援を惜しまず、内政や人権にはうるさく口を出さない日本は、付き合いやすい相手であろう。日本にとっても、対日観も良好で、5000万人を超える人口を有する未来の市場で、地政学的にも重要な場所にあるミャンマーはつながっておきたい国である。その意味で、民主選挙を経て、復興に向けて動き出そうとしているミャンマーと日本は間違いなくウィン・ウィンになれる基礎を持っている。
ただ、実際のミャンマーは『ビルマの竪琴』から思い描かれるほどロマンチックではない。懸案の少数民族武装勢力との和平も相当進んだとはいえ、なお中央政府と緊張関係にある武装勢力も数多い。ミャンマーに対する中国の野心は衰えることはなく、おそらくは日本一国で対抗し得るものではない。しかし、欧米はロヒンギャ問題がきっかけで、すっかり足が遠のいてしまった。何より予想外であったのは、アウン・サン・スー・チー国家顧問の執政能力が、軍政時代に理想化されたイメージの反動もあってか、経済運営、少数民族対策、国内政治のどれをとっても当初の期待を下回っていると言わざるを得ないことだ。ミャンマーに対するロマンや思い入れだけでは、今後は乗り切れない局面に入ってくるだろう。
長い闘いの末にようやく民主化を成し遂げた後、政治の失敗から権威主義体制に逆戻りしてしまう事態が、アジアや中東では常に起きている。ミャンマーにも、そのリスクはなお存在する。軍政時代のような状況に戻さないために、日本がミャンマー問題で果たせる役割は小さくない。
ただ、アウン・サン将軍と鈴木大佐の交流や、『ビルマの竪琴』など歴史をめぐる「美談」を、現在のミャンマー社会で説得力のある話題にするのは難しい。ミャンマー長年の課題であった民主化が一定の実現をみた今、次世代につながる新しい日・ミャンマー関係の未来像を模索し、具体化していくことが、この格別に強い親日意識を有している「究極の親日国」ミャンマーと共に歩んでいく次のステップになるはずだ。=おわり
バナー写真:ミッチーナの寺院「スータウンピー・パヤー」にある涅槃像(野嶋写す)