ミャンマー特集(4) 難題・少数民族和平を陰で動かす2人の日本人
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全土で続いた少数民族の武力抵抗
ミャンマーには、ヤンゴンの中央政府の統治に抵抗する少数民族勢力が多数存在している。その数は20グループに達するという。同一民族でも意見の対立で分裂しているなど、グループ同士の関係は微妙。政府顔負けの強力な軍事力を有する勢力もいる。この複雑きわまりない民族対立を解決に向かわせることこそ、この国にとっての最重要課題だ。
少数民族和平が実現しないゆえに、長期にわたる民主化の抑圧と軍政支配が正当化され、高い潜在力を持ちながら経済が停滞する要因にもなった。ロヒンギャ問題の陰に隠れてしまいがちだが、少数民族和は着実に進みつつある。実はその舞台裏には仲介役を演じた2人の日本人がいた。
遺骨収集のNGOトップである井本勝幸(55)と、日本財団会長でミャンマー国民和解日本政府代表を務める笹川陽平(80)だ。
ミャンマーの取材で、アウンサン・スーチー国家顧問率いる国民民主連盟(NLD)政府、国軍、外交・援助関係者を問わず、少数民族問題に関してこの2人の名前を聞かないことはない。政治的に敏感な問題にもかかわらず、日本人がフィクサー的な役割を務めているケースは海外では極めて珍しい。
ミャンマーは多民族・多宗教の国である。人口はおよそ5400万人。仏教徒のビルマ族がおよそ7割を占めてはいるが、政治統計によれば135 を数える民族が暮らしており、キリスト教やイスラム教の信徒も多い。植民地支配した英国の分割統治で民族間の対立が埋め込まれ、独立後も70年にわたり各勢力が中央政府に対する激しい武力闘争を続けてきた。
座って話し合える環境を
アフリカやアジアで援助ボランティアを経験し、僧侶でもあった井本がミャンマーに初めて入ったのは2010年ごろ。最初はビルマ戦線で命を落とした日本兵たちの遺骨収集が目的だった。この時、警察に捕まり、拘置所で何日かを過ごした。そこに、当時軍政から弾圧を受けていたNLDの幹部や民主化運動の若者たちもいた。何かできないかと考え、行動を起こす。
当時、少数民族の武装グループリーダーの一部は、国境を越えたタイのチェンマイに潜伏していた。井本はチェンマイで彼らと接触しながら、厳しい山岳地帯にあるミャンマーの少数民族地域に密かに入り込んだ。カチン、モン、シャン、カレンなどのグループを一つずつ説得し、少数民族11グループからなる「統一民族連邦評議会」(UNFC)を立ち上げたのが2011年2月。それまでバラバラだった少数民族が一つのプラットフォームで政府と交渉できる下地を作り上げた。
当初、ミャンマー政府はいい顔をしなかったという。自らの体験を記した『ビルマのゼロファイター』『帰ってきたビルマのゼロファイター』(いずれも集広舎)の著書がある井本はこう話す。
「テインセイン(大統領)は怒りましたよ。ブラックリストの日本人が余計なことをしていると。でも、その後に『井本は使えるかもしれない』に変わったんです」
民政移管の先頭に立った軍出身のテインセイン大統領は少数民族問題の解決に熱意を燃やし、人を介して井本とたびたびコンタクトを取るようになった。
「武装勢力も本音は戦争に飽き飽きしています。疲れきってもいます。でも、プライドもある。そこが難しい。私は最前線を歩いて、彼らと酒を酌み交わして語り合った。和平にどんな利益があるかを説明しながら、みんなが座って話し合える環境を作っただけです」
少数民族は基本的に独立を求めているわけではなく、強い自治権を有する形で連邦制国家に参加することが望みだ。だが、中央政府への不信感は極めて強い。そこには繰り返された中央政府の「裏切り」が災いしている。
独立に向かう新生ビルマを率いたアウンサン将軍(アウンサン・スーチー氏の父)は1947年、シャン族やカチン族など少数民族と連邦国家として独立することに合意したパンロン会議を開いた。だが、その合意はアウンサンが暗殺されたことで、新憲法には十分に反映されなかった。62年には当時のウ・ヌー首相がパンロン会議に基づく憲法改正に着手したが、直後に国軍のクーデターがあり、連邦制を目指す動きは止まってしまった。
「平和の果実」もたらす黒子役
井本と並んで、和平の進展に力を尽くしたのが笹川だ。2012年に少数民族とのコンタクト先を井本から紹介され、チェンマイで少数民族の幹部らと面会。以前からミャンマーのハンセン病対策に関わってきた日本財団だったが、これをきっかけに少数民族和平にも取り組むようになる。
13年に民間人としては異例の日本政府代表に任命された笹川には、「日本式紛争解決」を世界に広げたい、という希望があった。細かいところに口を出し、力で動かそうとするのが欧米流の紛争解決だとすれば、あくまでも一歩引いた黒子的な仲介者に徹して、当事者同士の話し合いを促すことに重きを置くのが日本式だという。
「ミャンマーは複雑系」というのが笹川の持論だ。ある民族とある民族が対立していたり、新旧の両政権が内戦していたりするような二項対立ではなく、ミャンマーには現政権の民主化勢力、軍、そして複数の少数民族武装勢力があり、それぞれの主張も要求も違っている。過去から積み重なった恨みやわだかまりも存在する。複雑に絡まった糸をほどいていくには「対話を重ねて見守ることが、遠いようで最も近い道」だと笹川は考える。
笹川の背後には、豊かな財政基盤を持つ日本財団がある。話し合いが終わって武器を置けば、日本政府や同財団の人道支援が始まる。日本財団はヤンゴンにオフィスを構え、機動的に案件を進める体制を組んでいる。一方で、少数民族の自治や権利拡大をどうするかなど政府との政治協議にはタッチしない。
「停戦したところにどんどん復興支援が入ると、未署名のところも焦ってくれる。平和の果実を一般庶民に行き渡らせることが大切。政治交渉はゆっくりやればいい」と笹川はいう。
信頼を勝ち取って得た和平
交渉が決裂しそうになると、井本と笹川は「自分が保証人になる」と、席を立った少数民族グループを呼びとめる役割まで演じた。その2人の働きは、2015年10月に結実する。70年間も成果がなかった政府と少数民族勢力の交渉において、カレン民族同盟(KNU)ら8グループと歴史的な停戦合意にこぎつけたのだ。さらに18年2月に新モン州党(NMSP)とラフ民主同盟(LDU)の2勢力とも合意に達した。残りあと半分、というところまでこぎつけた形である。
ミャンマーの主な少数民族勢力
2015年停戦合意 | カレン民族同盟(KNU) |
カイン国民解放軍(KNLA) | |
パオ民族解放機構(PNLO) | |
全ビルマ学生民主戦線(ABSDF) | |
チン国民戦線(CNF) | |
アラカン解放党(ALP) | |
民主カレン仏教徒軍(DKBA) | |
シャン州和解評議会(RCSS) | |
2018年停戦合意 | 新モン州党(NMSP) |
ラフ民主同盟(LDU) | |
停戦未署名 | カチン独立軍(KIA)など |
ミャンマーの少数民族和平交渉は、もともとは欧米諸国を中心に進められていた。ノルウェー、米国、英国、スイス、オーストラリアなども関わっていたが、15年の停戦合意の署名式にウイットネス(国際証人)として招待されたのは、国連、EU、中国、タイ、インド、そして日本だった。日本が戦後、外国の国内和平問題に主体的に関わった初めてのケースだとも言われている。
ミャンマーでは18年末から19年4月まで、国軍が一方的な戦闘停止を表明していた。その裏にいたのが笹川だ。軍政とのパイプが太い笹川が司令官を直々に説得し、和平交渉の進捗が遅いとみるや、さらに6月末までの延期をのませた。
民間の井本、政府・財団の笹川。2人の役割はそれぞれ違うが、共通しているのは、中央政府や外国の干渉に対する歴年の不信に凝り固まった少数民族の信頼を勝ち取り、和平交渉で発言権を得ているということだ。
日本に寄せる信頼感の源に
ミャンマーの武装勢力で停戦未署名は6-7勢力だが、先行きは決して明るいとは言えない。井本は「彼らのバックには中国がいて、中国以外とは交渉するなと言われているようです。人身売買、麻薬など違法行為に手を染めていて、利益を武装勢力に与えている。中国が望んでいるのはカオス。これらの勢力は中央政府に任せるしかない」と話す。
それでも井本はヤンゴンに拠点を起き、遺骨収集のプロジェクトを続けながら観光客が入れないような奥地に入りこみ、武装勢力のリーダーたちとのコンタクトを続けている。笹川のミャンマー訪問は、この十数年間で100回近くを数えるという。笹川はヤンゴン滞在時、軍とスーチー政権の両方とコミュニケーションを重ね、お互いの思いを伝えるメッセンジャーにもなる。
日本政府はかつてのような潤沢な資金を海外援助に出すことはできなくなり、国民の間にも援助のばらまきを肯定しないムードが高まっている。その中で、政府の力を限定的に借りながらも個人の力によって和平に向けた実績をあげている日本人がいる。この事実が、ミャンマーという国が日本に寄せる信頼感の源になっていることは間違いないだろう。
バナー写真:チン州でゾミ族(チン族)の人々と日本兵遺骨調査に取り組む井本勝幸さん(左から2人目)=2013年2月、本人提供