『首』:快楽と無常の追求、北野武/ビートたけしにしか撮れない映画
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天下統一を目指す織田信長(加瀬亮)の家臣、荒木村重(遠藤憲一)が反乱を起こして姿を消した。怒り狂った信長は、家臣の羽柴秀吉(ビートたけし)や明智光秀(西島秀俊)らに村重の捜索を命じる。「働き次第では、自分の跡目を相続する」と。
ところが秀吉は、これを機に信長と光秀を陥れ、自らが天下を取ろうと画策していた。まずは、信長の暴虐に日々耐えていた光秀に、その村重を差し出したのである。元忍者の芸人・曽呂利新左衛門(木村祐一)が、秀吉の命を受け、先んじて村重を捕らえていたのだ。ひそかに村重と恋仲だった光秀は、村重を城に匿う。
さらに秀吉は、新左衛門や元百姓の難波茂助(中村獅童)を使い、信長が家臣ではなく嫡男に跡目を相続させるつもりであるという情報をつかんだ。一方、村重の行方をつかめずに苛立つ信長は、反乱の黒幕は徳川家康(小林薫)だと考え、光秀に家康暗殺を命じる……。
村重の首をめぐる争いは、やがて信長の首=天下を争う戦いに発展してゆく。互いを出し抜き天下統一を狙う武将たち、彼らの間を駆け回る芸人、成り上がりの夢に燃える元百姓、さらに坊主や忍者が入り乱れながら、それぞれの野心と欲望が交錯する物語だ。
北野流戦国時代劇
映画『首』は、北野武にとって『座頭市』(03)以来2度目の時代劇。誰もが知る武将たちが織りなす戦国絵巻は、信長が壮絶な最期を遂げた本能寺の変へと向かって突き進むのだ。原作は北野自身による同名小説だが、映画の構想は約30年におよび、北野いわく「脚本は何十年も前にだいたいは書き上げていた」という。
対立する複数の陣営、その裏をかいて利益を得ようとする第三者、確固たる縦社会の中で鉄砲玉として送り込まれる男。本作のプロットやモチーフは、『アウトレイジ』シリーズ(10、17)をはじめ、『ソナチネ』(93)や『BROTHER』(00)といった北野によるヤクザ映画に通じるものだ。群雄割拠の戦国時代を、自らが最も得意とする構造で読み直したところに、まずは“北野流戦国モノ”の特徴があると言ってよいだろう。
しかしながら本作は、複雑な勢力関係と人間模様を描く群像劇であるにもかかわらず、驚くほどプロット重視“ではない”映画となった。ストーリーから「戦国版『アウトレイジ』」のような内容を想像することはたやすいが、実際には『アウトレイジ』シリーズが作品を追うごとにプロットよりシーンやキャラクターの強度を追求していったのと同じく、『首』も物語以外の要素に重きが置かれている。北野の執筆した原作小説が、歴史的背景や人物の行動、出来事の経緯を丹念に語る作品だったにもかかわらず。
より先鋭化した「北野映画」として
端的に言えば、この映画は事前の情報から想像するような陰謀劇でも、また政治劇でもない。「織田信長や豊臣秀吉はいかなる人物だったか」という、歴史映画によく見られる人物探究にも向かわない。基本的には淡々とした語り口ながら、瞬間的な爆発力を時折見せつけ、その一方でだらだらと弛緩した時間のたとえようもない魅力で観客を惹きつける……そんな北野映画の演出術をこれまで以上に先鋭化した作品なのだ。まるで、「映画とは目と耳で楽しむものであり、それ以上でも以下でもない」と主張するかのようでさえある。
そのことは映画が始まってすぐ、加瀬亮演じる織田信長が尾張弁で怒号をぶちまけるシーンからも明らかだ。原作の信長は標準語だが、映画版の信長は、加瀬が終始ハイテンションで演じており、方言ならではの台詞(せりふ)のリズムがおかしみをもたらす。原作にないインパクトある暴力表現に、『アウトレイジ』の名シーンへのセルフオマージュを見ることもできるだろう。
プロット重視ではないということは、出来事の経緯や因果を、すべての観客に説明する気がないということでもある。そんななか、日本史に疎い観客をも惹きつけて離さないのが、北野作品だからこそ実現したであろう名優陣の演技だ。あえて言えば、この映画の動力源は、北野流の戦国時代に解き放たれた役者たちによる名演・怪演の連鎖なのである。
『Dolls』(02)以来の北野作品となる西島、『アウトレイジ』シリーズで新境地を拓いた加瀬のほか、本作には“新旧北野組”ともいうべき面々が揃った。『その男、凶暴につき』より遠藤憲一、『座頭市』から浅野忠信といった久々登板の顔ぶれや、常連組の寺島進、津田寛治、六平直政らは、出番の大小にかかわらず、独特の暴力とユーモアが散りばめられた世界に説得力を与える。
初参加の中村獅童や小林薫、荒川良々も強い印象を残した。芸人の曽呂利新左衛門役を演じたのは、自身も芸人の木村祐一で、同じく北野作品には初出演である。武士たちの争いで芸人が暗躍するという設定の通り、本作には芸人やお笑い出身の俳優たちが要所に登場。思わぬ人気者まで顔を出し、観る者を驚かせる。
しかしながら、映画としてはかなり破壊的な作りだ。名だたる出演者の結集により、どのシーンも北野映画屈指といえるほど贅沢(ぜいたく)な画面となったが、作風の突き抜け方は『監督・ばんざい!』(07)や、ビートたけし名義での監督作『みんな〜やってるか!』(95)まで回帰したように思える。
前面に押し出されるのは、笑いに特化したシーンやナンセンスな台詞、唐突な暴力、そして俳優陣の演技だ。さまざまな演技スタイルが混在する中心に存在するのは、ほとんど演技をしていないようにさえ見える秀吉役の北野=ビートたけし。黒田官兵衛役の浅野と、秀吉の弟・豊臣秀長役の大森南朋は、多くのシーンで北野とコントめいたやり取りを演じ、アドリブにしか見えない掛け合いもそのまま使われている。
浮かび上がる「死の無常」
いわば、一瞬の快楽がひたすらにつなぎ合わされた2時間11分なのだ。熱演も、笑いも、アクションも、残酷描写も、力の入った合戦シーンも、すべてはその場かぎりの面白さのためにあるかのよう。しかしその結果、あらゆる北野作品に通ずる「死の無常」が浮かび上がってくる。これまで北野のヤクザ映画が描いてきたのは、主に極道者の暴力と生死だったが、戦国時代では百姓たちも男女を問わず呆気なく殺される。その「死」さえも“その場かぎり”であり、ドラマティックでもなければ、物語に大きな影響を及ぼすこともない。
先にも触れたように、原作小説は出来事の経緯を語ることに重きが置かれており、この映画版とは印象が大きく異なる。しかし、それ以上の変更点は、北野が小説『首』に込めたテーマを表現する台詞が、映画『首』で丸ごとカットされたことだろう。物語のラストに用意された、人の生死と階級社会への思いを語る台詞は残っておらず、その意味は一瞬の快楽が連なった先に、ほんの一瞬だけ垣間見えるものとなった。この改変で強調されたのも、やはり徹底された「死の無常」である。
映画『首』は、まぎれもなく北野武=ビートたけしにしか作れない作品だ。このキャスティングも、この作風も、この笑いも、この残酷さも、この派手さも、この潔い切れ味も……どんな映画監督であれ、絶対に真似することはできない。
作品情報
- 原作:北野 武「⾸」(⾓川⽂庫/KADOKAWA 刊)
- 監督・脚本・編集:北野 武
- 出演:
ビートたけし
⻄島 秀俊 加瀬 亮 中村 獅童
⽊村 祐⼀ 遠藤 憲⼀ 勝村 政信 寺島 進 桐⾕ 健太
浅野 忠信 ⼤森 南朋
六平 直政 ⼤⽵ まこと 津⽥ 寛治 荒川 良々 寛⼀郎 副島 淳
⼩林 薫 岸部 ⼀徳 - 配給:東宝 KADOKAWA
- 製作:KADOKAWA
- 製作年:2023年
- 製作国:日本
- 上映時間:131分
- 公式サイト:https://movies.kadokawa.co.jp/kubi/
- 11月23日(木・祝)全国公開
予告編
バナー画像:映画『首』 ©2023 KADOKAWA ©T.N GON Co.,Ltd.