【書評】「北大三傑」の大志を描いた評伝:芦原伸著『北の星たち 新渡戸稲造、内村鑑三、有島武郎』
Books 歴史- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
札幌、米国東部、軽井沢が主舞台
新渡戸稲造(1862~1933年)は貴族院議員、「国際連盟」事務次長などを務め、世界平和や日米友好のために尽力し、英文の名著『武士道』で知られる国際人。東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長を歴任した教育者でもあった。
内村鑑三(1861~1930年)は日本にキリスト教を根づかせようとした思想家・伝道者で、『代表的日本人』など英文の著作もある。
有島武郎(1878~1923年)は白樺(しらかば)派の作家で『カインの末裔』、『惜みなく愛は奪ふ』、『或る女』など多くの小説で一世を風靡(ふうび)した。
米国留学組でもある3人は明治時代から大正、昭和初期にかけての近代日本で輝いた“三つ星”だ。
本書は三者三様の人生模様を1冊の物語に織り上げた力作である。その縦糸は「北海道開拓の父」と称される米国人のウィリアム・スミス・クラーク博士だ。マサチューセッツ州立農科大学の学長だった博士は明治9(1876)年、札幌農学校の初代教頭に招かれた。帰国の際、彼は教え子たちに馬上から別れの言葉として「Boys, be ambitious.(青年よ、大志を抱け)」と叫んだと伝えられる。
新渡戸と内村は札幌農学校の2期生。有島は19期生だ。3人とも英国のピューリタン(清教徒)が先祖とされるクラーク博士から直接キリスト教の教えを受けていないものの、感化を受けてそれぞれキリスト教に入信した。
新渡戸はプロテスタント(新教)の一派であるクエーカー教徒になった。無教会派の創始者となった内村は博士の母校アマースト大学に留学中、クラーク本人にも面会している。有島は留学を経てキリスト教から遠のき、社会主義に傾倒していくが、人道主義の立場から弱者に寄り添った作品を残した。
一方で、3人に共通しているのは青春時代に勉学に励んだ札幌、留学先の米国東部、そして晩年を過ごした避暑地・軽井沢と3カ所に滞在したことだ。人生の舞台となった各地が物語のいわば横糸になっている。著者はこう書く。
札幌と軽井沢はともに明治期の新興開拓地であり、豊かな自然が息づくところである。清らかな魂のもちぬしだった三人には札幌と軽井沢はいかにも似つかわしいところに思われた。
著者、先輩の足跡をたどって執筆
本書は3人の単なる伝記ではない。読者をひきつける物語になっているのはなぜか。それは1946年生まれの著者、芦原伸(あしはら・しん)氏の経歴と深く関係している。北大文学部を卒業、ノンフィクション作家、紀行作家として世界を旅した。退職を機に群馬県浅間高原に山小屋をもち、軽井沢にも通うようになった。
つまり、先輩に当たる「北大三傑」ゆかりの現場にも自ら足を運び、“伝記紀行”とも呼べる本書を執筆したのである。
偶然の出会いもあった。著者が83年に雑誌の取材で訪れたカナダの「ヴァンクーヴァー島」で宿泊したホテルは、新渡戸の「最後の滞在地」だった。新渡戸は1933(昭和8)年、カナダでの第5回太平洋会議に出席した後、メアリー夫人とこのホテルで休養したが、急に体調を崩し、同年10月15日に現地の病院で客死した。
有産階級だった有島は1922(大正11)年、北海道狩太村(現ニセコ町)の「有島農場」を小作人たちに無償で解放した。その翌年の6月9日、軽井沢の別荘で「婦人公論」記者の波多野秋子と情死した。著者が「有島武郎終焉(しゅうえん)地碑」を訪れたのは2022年6月9日。「なんと九十九年後の同月同日に私ははからずもこの地に立っていたのだ」。著者は有島の心中事件を自己解放の「尊厳死」だったとの仮説を立てている。
戦争の時代に「人道主義、自由主義」
著者は2023年6月、内村の終焉の地も見学した。現在の東京都新宿区北新宿3丁目。1930(昭和5)年3月28日に亡くなるまで暮らした住居跡だ。
内村は第一高等中学校の教員だった1891(明治24)年、教育勅語に対する「不敬事件」を起こして辞任した経緯がある。その後、著作活動を続け、日刊新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」英文欄主筆としても健筆を振るった。足尾銅山鉱毒反対運動にかかわり、日露戦争の開戦前夜には非戦論を唱えた。
「北大三傑」が生きた明治から昭和初期は戦争の時代でもあった。日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と10年刻みに戦争が起きた。しかし、国際平和を希求した新渡戸や内村は「権力になびかず、時流におもねることなく、戦争に反対し、軍部批判を行った」。有島の「農場解放」は戦後の農地解放の先駆けともなった。
彼らに共通するのはヒューマニズム(人道主義)であり、リベラリズム(自由主義)であった。ともに留学したアメリカ東部ニューイングランドの清教徒精神を受け継いだことも共通している。
今こそ“三つ星”の遺志の再評価を
ウクライナや中東での終わりの見えない戦争、コロナ禍、地球温暖化、大地震など自然災害が相次いでいる今の時代は、明治時代と酷似していると著者は指摘する。
明治の時代も疫病(コレラ)、肺病、天然痘などの病魔が蔓延し、三陸大津波などの災害に見舞われた。
しかも、日本では人口減少、高齢化、地方の過疎化、格差問題など課題も山積している。著者は「こうした低迷する時代だからこそ、もう一度彼らのambition(大志)を振り返ってみたい」と説く。“三つ星”たちが思い描いた大志は成就しなかったかもしれないが、彼らの遺志は今こそ再評価すべきだろう。
「北大三傑」の人生をめぐる年表
▽1861年 内村鑑三、高崎藩士の長男として江戸に生まれる
▽1862年 新渡戸稲造、盛岡藩の勘定奉行の三男として誕生
▽1868年 明治維新
▽1877年 新渡戸と内村、札幌農学校に2期生として入学
▽1878年 有島武郎、旧薩摩藩郷士の長男として東京で誕生
▽1884年 新渡戸、米ジョンズ・ホプキンズ大学に留学
▽1885年 前年に渡米した内村、アマースト大学に入学
▽1894年 日清戦争
▽1896年 有島、札幌農学校に19期生として入学
▽1903年 有島、米ハーバード大学大学院などに留学
▽1904年 日露戦争
▽1914年 第一次世界大戦
▽1918年 新渡戸、後藤新平と「軽井沢夏季大学」を開く
▽1920年 新渡戸、「国際連盟」事務次長に就任
▽1921年 内村、軽井沢の星野温泉に(以後、毎夏滞在)
▽1923年 有島、記者の波多野秋子と軽井沢の別荘で心中