【書評】海外で輝いた陶磁器150年の歴史:井谷善惠著『ニッポン・コーヒーカップ物語』
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名古屋生まれの洋食器「ノリタケ」
「ノリタケの森」が名古屋市西区則武(のりたけ)新町にある。世界的な陶磁器ブランド「Noritake」で知られる日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミテド)が1904(明治37)年に誕生した跡地だ。赤レンガ造りの元工場やギャラリー、レストランなどが並ぶ。
敷地内のノリタケミュージアムで、創立120周年を記念する企画展「にほんの洋食器ものがたり 120年のみちのり」(開催期間2024年1月4日~12月25日)が開かれている。
本書の内容は、この企画展と重なり合うところがある。本書では、輸出陶磁器の中でもコーヒーカップに焦点を当て、ノリタケだけでなく多くの作品の技法や特徴を紹介、写真も掲載している。輸出向けコーヒーカップの形やデザインは、本場ヨーロッパを手本としながらも、主要輸出先のアメリカ人の嗜好(しこう)を優先したという。その創作や生産、貿易に携わった100人前後の人物たちを活写しているのが本書の特色だ。
「有田焼」は朝鮮人の陶工が開祖
海外で好まれた洋食器は、吸水性のない硬質の焼き物「磁器」が主流だった。日本の磁器発祥の地は、佐賀県有田町といわれる。本書では次のように記述している。
日本の磁器の歴史は1592(文禄元)年文禄・慶長の役の際、諸大名が朝鮮半島から陶工を連れ帰ったことに始まり、1616(元和2)年李参平が有田町泉山に白磁鉱を発見し、磁器焼成に成功したことにより本格化する。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の結果、朝鮮人陶工の李参平(日本名:金ケ江三兵衛)が磁器の原料を探し当てたのだ。彼は「有田焼(ありたやき)」400年の歴史の“開祖”と呼ばれる。泉山磁石場は国指定史跡として現存している。
本書で、明治時代の磁器の発展に寄与したとして第一に挙げているのが、ドイツ生まれのゴットフリート・ワグネル(Gottfried Wagener)博士だ。1868(明治元)年に来日、有田で磁器製造の工業的技術を伝授、東京職工学校(現東京工業大学)でも教えた。博士は西洋の模倣ではなく、「日本独自の独創的なもの」を目指すよう説いたという。
対米輸出は福沢諭吉との出会い
明治維新以降、「外貨獲得を強く望む明治政府の後押しもあり、輸出陶磁器産業は急速な勢いで成長していった」。有田焼が磁器の代表格だったが、輸出磁器の中心地は「瀬戸焼」や「美濃焼」を背後に控えた名古屋に移っていく。こうした中でノリタケが生まれた。
ノリタケの歴史は、1876(明治9)年に元御用商人、六代目森村市左衛門が異母弟の豊(とよ)と東京・銀座4丁目で創業した貿易商社、森村組にまでさかのぼる。豊は米国ニューヨーク6番街に「森村ブラザーズ」を創立、対米輸出の足掛かりを築いた。
市左衛門が貿易を志したのは、福沢諭吉と出会い、アドバイスを受けたのがきっかけだった。開国による貿易の拡大で日本の金が海外流出していることについて、福沢は「金を取り戻すには、輸出以外に手はない」と進言したという。
米市場では日本の骨董(こっとう)品や瀬戸焼など陶磁器が好評を博した。森村組は日本で本格的な洋食器を生産しようと、市左衛門の義弟に当たる大倉孫兵衛とその長男、和親らと名古屋でノリタケを立ち上げたのである。大倉父子によって1919(大正8)年には高級洋食器メーカー、大倉陶園も東京・蒲田で創業した。
米国でアンティークとして再評価
日本製洋食器の対米輸出は太平洋戦争によって中断したが、「1960年代にはアメリカ合衆国で日本から輸出された食器のシェアは七割を超えていた」。一方、日本国内でも戦後、洋食器ブームが起きたものの、「バブル崩壊とともに、家庭用業務用の需要は落ち込み、現在に至るまでその販売量は回復の兆しを見せていない」のが現状だ。
かつての輸出陶磁器の一部は、その芸術性から米国で1970年代から「オールドノリタケ」の呼称でアンティークとして再評価され始めている。ノリタケミュージアムの資料によると、オールドノリタケとは「明治中期から第2次世界大戦終結までに、森村組と日本陶器が製造販売した陶磁器の総称」としている。
本書では、オールドノリタケの美術的価値を見出したのは米ワシントン大学教授で陶芸家のハワード・コトラー(Howard Kottler)博士(1930-89年)だと指摘。1982年に米国で博士のコレクションを集大成した公式展覧会が開催されたことで、オールドノリタケの存在が広く知れ渡った。
明治時代、コーヒーを飲んだこともない日本人職人たちが「コーヒーカップ」を作り始めてから、およそ150年が経つ。長崎出身の鄭永慶(てい・えいけい)が日本初の喫茶店「可否茶館」を東京・上野で開店したのは1888(明治21)年だった。洋食器の生産・輸出は曲折を経ながらも、日本国内の喫茶・洋食文化の発展にも貢献してきた。
著者は本書をこう結んでいる。
日本のコーヒーカップは、今我々の前に日本人がこの150年の間に味わった苦難とそれにも負けずに前に進んできた歴史を示してくれる。